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「君の名は」を考える①【町長が最後の最後に避難指示を出したのは何故か?】

君の名は

「君の名は」は2016年に公開された新海誠監督によるアニメーション映画作品である。前作「言の葉の庭」から3年経っており、個人的にも非常に楽しみにしていたことを覚えている。しかし、公開日に見に行くことが出来ず、知らないうちに大ヒットしてしまい、何やら天の邪鬼的な気持ちが膨れ上がって、見に行ったのは公開から一ヶ月以上立っていたと思う。その間一切情報を入れないようにしたが、その甲斐あって非常に楽しめた。

今回は三葉の父である町長が、物語の最後に避難指示を出した理由を考えようと思う。というのも、私自身どうしても避難指示が出されたことに納得できない気持ちを持ち続けていた。同じような人もいるのではないかと思う。

我々がラストの展開に納得するためには本編に隠されたもう一つの「君の名は」を掘り出す必要があると考えている。

その前にまずは、普通に考えたらどういう理解が可能かを振り返ろう。

「君の名は。」の全体的なあらすじはこちら

通常の考え方

町長の避難指示については以下のシーンを見ると大体の流れが分かる。

つまり

  1. 滝と入れ替わっている三葉が町長の説得を試みる。
  2. 「隕石が落ちる」という話しを最初は信じなかった一葉と四葉だったが、最終的に2人は避難指示を出すように町長に伝える。
  3. 滝から「隕石が落ちる」というメッセージを受け取った三葉は町長にその事を伝える。
  4. 家族からの4度の要請に重い腰を上げた町長は避難指示をだす。

ということになると思われる。三葉が町長室に駆け込むシーンは「離れ離れになっていた家族がもう一度一つになる」という意味あいを持った「いいシーン」となっているわけである。

しかしこれで納得できるだろうか?少なくとも私は納得できなかった。

もう少しだけ納得度を上げる考え方に至るには、劇中で町長が放った不可解なセリフを追う必要があるように思われる。そしてそのセリフの意味が明らかになった時、隠蔽されたもう一つの「君の名は」が見えてくる。

町長の不可解なセリフともう一つの「君の名は」

「妄言は宮水血筋か」

滝と入れ替わっている三葉が町長と話したときに、町長は「妄言は宮水の血筋か」というセリフを吐く。

つまり町長は、滝と入れ替わっている三葉の前に誰かの「妄言」を聞いたことになる。それは一体誰の、どういう妄言だったのか。ヒントはその次の町長のセリフ「お前は、誰だ?」である。

「お前は誰だ?」を最初に利用したのはもちろん滝である。したがってこの言葉を町長が使ったということは少なくとも町長は「入れ替わり」と何かしらの関係があることになる。

もちろん町長が誰かと入れ替わっていたと思うのが当然のことなのだが、それは半分正しくて半分間違っていると私は考えている。その部分を明らかにするためにもう一つの不可解なセリフについて考えていこう。

「救えなかった」

滝が口噛み酒を飲んで再び三葉との入れ替わりを試みた時、宮水の人々が受け継いできた記憶の中を滝は旅することになる。その中で滝は、恐らく二葉お母さんがなくなった直後であると覆われる当時宮司だった町長の姿を見る。

そこで町長は「救えなかった」という悲痛な一言を放つ。

一瞬納得してしまうのだが、どうもおかしな一言である。町長は医者でもなんでもないのだから、二葉を救うことなんかそもそも出来ない

ここからは想像の翼を羽ばたかせなくてはならない

町長のあの言葉は「本来なすべきことをなさなかった」ということになるのではないだろうか。

恐らく二葉はなくなる直前に未来の町長と入れ替わっている。そこでおかしな言動を繰り返す二葉を町長はどうすることも出来ず困り果ててしまったのではないだろうか。そしてその後二葉は入院しなくてはならない状況(病気だろうか?)に陥りそのままなくなってしまう。訳の分からない「妄言」を繰り返す二葉に対してもっと出来ることがあったのではないかと後悔している町長の発した言葉が「救えなかった」だったのではないだろうか。

避難指示を出した本当の理由

以上のことから考えると、以下のシーンが持っている意味は違ってくる。

このシーンにいる町長は二葉お母さんと入れ替わっているのである。そして恐らく、部屋にたどり着いた三葉は、隕石が落ちるという事実だけではなく、自分が名前を忘れた誰かと入れ替わることによってその事実を知ったことも伝えたに違いない。この奇跡的な状況の発生により、二葉と入れ替わっている町長は避難指示を出すに至ったのである。

したがって上のシーンは、離散した家族がもう一度集ったシーンではなく、宮水4世代の女性が一堂に会しているシーンとなる。

これでこの記事における一つの結論にたどり着くことが出来た。つまり

町長が避難指示を出したのは二葉と入れ替わっていたから

ということになる。

さて、これでこの記事を終えていいのだろうか?私は終わってはならないと思う。

というのも「避難指示を出した結果、本当に糸守町の人々は救われたのか」という深刻な問題が残っているのだ。

なんのことかわからないかもしれないが、これは「君の名は」という作品が持っているある種の「メタ構造」に関する問題であり、作品の意味合いという観点からもとても重要なことである。

この問題を考えるヒントは、勅使河原の不可解な対応である。

未来を変えたのではなく、世界線が変わった

自転車のことが分からない勅使河原

物語の終盤、町長に三葉として対面した滝は見事に説得に失敗し、勅使河原から自転車を借りて山頂に向かう。その途中自転車をだめにしてしまうのだが、なんとか山頂にたどり着き、幽世の世界で彷徨う三葉と再会を果たす。そして滝は、隕石が衝突するというメッセージを三葉に伝えて2人は別れる。その後勅使河原と再会した三葉は、勅使河原に自転車の事を詫びるが、原付きに乗っている勅使河原は全くピンときていない。何故だろうか?

「君の名は」のように「時空を終えて世界を帰る物語」には二通りの考え方があると思われる。一つは「Back to the future」のように「過去を帰ることによって『未来が変わる』」という考え方。もう一つは、「シュタインズ・ゲート」のように「過去を変えることによって『世界線が変わる』」という考え方である。

前者の立場を取ると、勅使河原の対応に説明がつかない。

「君の名は」で決定的に何かが変わったのは、山頂で三葉と滝が再会を果たした時点なので、自転車を借りた後である。したがって、「未来が変わった」と考えると勅使河原が自転車のことにピンと来ていないのはおかしい(ホントのことを言うと三葉が何故自転車について知っていたかも不思議である)。したがって、「君の名は」で発生したことは「未来が変わる」ではなく「世界線が変わる」ということになるだろう。

そのようにしたのは単に新海監督の好みかもしれない(「雲のむこう、約束の場所」では「平行世界」が描かれていた)。

しかし、少なくとも「君の名は」においては、それ以上の意味合いがあるように思われる。

実際に起った災害を「なかったこと」にはしてはならない

「過去に戻って世界を帰る」ということは人類の夢であり、どうすることも出来なかった悲劇に対する否応なしの後悔の現れであるとも言えるかもしれない。

「君の名は」はどう考えても東日本大震災を意識した作品である。

そして、三葉と滝が見せてくれた奇跡の物語は、様々な災害、悲劇を経験した我々の願いをすくい上げてくれたのだろう。その辺が「君の名は」が面白い理由であり、感動できる理由でもあろう(もちろん「理由の一つ」に過ぎないと思うけれど)。

しかし我々は忘れてはならない、三葉と滝が起こした奇跡は嘘であるということを。

我々が生きるこの世界では、様々な悲劇が発生してきた。そしてそれは厳然たる事実であり、それを変更することは本来できない。だからこそ人の命は尊いのであり、我々はおろそかに生きてはならないのである。それは「君の名は」でも同じはずである。

「君の名は」で本当に起こったことは、糸守町に隕石が衝突し、多くの命が失われたということである。この事実は本来変更することは出来ない。

映画やアニメーションというものは、どうしようもない現実の世界の中に、いっときの夢、癒やし、慰めを与えてくれる(そうではない作品も当然存在する)。

でもそれは嘘(フィクション)である。

作り手の苦悩の一つは、「どれくらいの嘘を客に提供するか」ということになると思われる。特にアニメーションの場合は、原理的には何でも出来る。客に甘美な夢を与えるトリックはいくらでも存在するのだろう。

しかし「君の名は」は「未来を変える物語」ではなく「世界線が変わる物語」を採用しることによって絶妙なバランスをとっている。

つまり、三葉と滝は確かに奇跡を起こしたけれど、多くの人の命が失われたという事実は消えていないのである。

現実の悲劇が「なかったこと」に出来ないのならば、嘘の中で起こった悲劇も「なかったこと」にしてはならない。

映画やアニメーションが持っている原罪と懸命に戦おうとしている作り手の姿が見えてくるのも、「君の名は」という作品の素晴らしさであると私は思っている。

まとめ

絶妙に脱線したような気もするが、本記事をまとめると以下のようになるだろう

「君の名は」のラストで町長が避難指示を出す流れにはどうしても違和感があるが、作品中の町長の不可解な発言をもとにすると、実は二葉お母さんと町長がラストの段階で入れ替わっていると考えることが出来るので、避難指示が出されたこともある程度自然なことのように思われる。

また、勅使河原の不可解な対応を軸に物事を考えると、三葉と滝が起こした奇跡は「未来を変える」ことではなく「世界線を変える」ことだったと考えられる。これは、新海監督の個人的な趣向とも取れるが、「実際に起ったことをなかったことにしてはならない」という意思の表れとも取ることが出来る。そしてそれは、「『客に嘘を提供して金を稼いでいる』という映画やアニメーションが持っている原罪」と戦いながら作品を生み出す多くの人々の懸命な姿を我々に教えてくれるように思われる。

ということになるだろう。また、現状私の頭の中にある「君の名は」の世界で発生したことを図にしてみた。

まだまだ暫定版であり、矛盾もあるのだが、現状はこんなところである。

「君の名は」といえば、最終的に三葉と滝が再び出会う展開が気に入らない人も多いと聞く。個人的には「2人は最終的に再会しなくてはならない」と考えている。この辺の事を次に記事にして見よう。

三葉がラストで町長の部屋に走り込んだ時、町長は「お前までまた」と言っているけど、「また」という表現が引っかからないかい?
そうだな、「また」ということは「奇跡の世界線」でも三葉は町長に一度あっていることになる。やはり矛盾なく整理するのは難しいな。