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映画「耳をすませば」の楽しみ方②【天沢聖司と月島雫が紡ぐ約束の物語】

前回は「『杉村』の物語」としての「耳をすませば」を考えた。

あえて主人公以外の存在に注目したわけだが、ちゃんと主人公達について考えないと「逃げ」だと思うので、天沢聖司と月島雫についてきちんと考えていきたい。

思い起こすと2人についての感想が年齢と共に明確に変わっていた。学生のころは、高校受験を前に小説を書き出す雫を見て「こいつはやべぇ女だ。逃げろ聖司!」と思っていたものだが、今見ると全く感想が異なる。

重要なことは、聖司も雫も「親と約束をした」ということだと思う。

「耳をすませば」のあらすじはこちら

「耳をすませば」で聖司と雫が交わした約束たち。

親ときちんと喧嘩し、約束をした聖司

「天沢聖司」という存在はある意味「完璧な存在」として描かれる。聖司は自らの夢を持ち、親と対立し、留学を勝ち取る。恐らく「天沢聖司」にほんとうの意味で共感できるのは、我が国でもそんなに多くはないだろう。あの頃の私が「天沢聖司」ではなかったからそのように思うだけかもしれないが、聖司の生き様は相当にかっこいい。もちろん地球屋の爺さんの手助けはあったものの、本人の中に確固たるものがなければあんな生き方は出来ない。

では「あんな生き方」とはどういうことかと言うと、「親と約束をした」ということだと思う。つまり、自分の事をわかってくれない親と対立し、そんな親の文句を言っているようなふつうの男ではない。爺さんの手助けは大きかったかもしれないが、親を説得した上で、契約を交わした

天沢聖司がバイオリン職人として大成することを願ってやまないが、たとえ目が出なくても、聖司は約束を守って日本に戻り、別の目標に向かって突き進むだろう。聖司にはそういう根本的な生きる力があるのだと思う。

男でも惚れ込んでしまいそうな聖司だが、彼に惚れてしまった月島雫も、親との契約を交わしたのである。

聖司ほどではなかったが、親ときちんと向き合った雫

私が学生だったころには「ヤバイやつ」に見えた月島雫だが、今見て思うことは「雫もきちんと親との約束を守ったのだなあ~」という事である。

「耳をすませば」に登場する「大人」は全員恐ろしいほど「ものわかりが良い」人ばかりである(その最たる存在が雫の父親だろう)。雫は間違いなくそういった大人たちに「守られる存在」として描かれている。もちろんそういう状況に気づいているからこそ、天沢聖司の生き方を見て焦りを覚えている。

初めこそ「秘密プロジェクト」として雫の小説執筆は始まったが、うまいこと成績が落ちていったおかげで、何やらおかしなことになっていると家族にバレることとなった。

その後の父親の判断は、通常では考えにくいものかもしれない(少なくとも自分にできるとは思えない)。しかし、結果的には名采配であり、あの父親が少数派の男としてどのようにあの家の中で立ち回ってきたかが分かる良いシーンになっていると思う。

そして雫は親との約束を守り、「ふつうの受験生」に戻っていく。

今となっては私がかつて雫を「やばいやつ」と思った理由を思い出せない。極めてまっとうな主人公である

2人はあの後どうなるのか?

さて、「耳をすませば」を見ているとどうしてもゾワゾワしてしまうのが、ラストで描かれる「結婚の約束」である。

右足ピーン状態で雫を抱きしめる聖司の姿はなんとも初々しいが、どうしてもこのシーンを素直に見ることが出来ない人も多いのではないだろうか。

  • 「見てらんねぇよ」
  • 「馬鹿じゃねぇの」
  • 「どうせ別れるに決まってる」
  • 「こんな事あるわけ無いだろ」
  • 「二人とも死んじまえ」

といったところだろうか。何れにせよ、このようなネガティブな感想を持つということはその人の中に「2人に対する憧れ」があるからであって、誰よりもあのシーンを肯定したいという思いが天の邪鬼的に現れているのだと思う。

もちろん、「ローマの休日」、「ブレスオブファイア」、「ラ・ラ・ランド」、「秒速5センチメートル」のように、「特別な時間を共有したが、別の道を歩む」という話になるのが自然ではある。

だが、この記事で述べてきたように「耳をすませば」は「約束の物語」である。したがって2人はあの後めでたく結婚するのだ。だって「約束」したのだから(その後別れるかもしれないけど)。

2人のみずみずしさを肯定で生きるように、懸命に生きることが大事なのかもしれないね。
そうだな、でもそれが一番むずかしい事かもしれないけれど。

おまけ➀:あの夏日本を騙しきったポスター

皆さんは「耳をすませば」のポスターといえば何を思い出すだろうか?雫と聖司が自転車を2人乗りしているポスターだろうか?私がまっさきに思い脱すのは以下の画像が使われたポスターである。

公開当時に映画館に見に行かなかった私は、このポスターのイメージでずっと「耳をすませば」を誤解していた。テレビで放送されていた予告も、随分とバロンが全面に出ていたと思う。初めて「耳をすませば」を見たときは全然イメージが違って驚いたものだ。

「平成狸合戦ぽんぽこ」以上にファンタジー要素のないこの作品をどうやって宣伝するかということは重要な問題だったに違いない。一体誰の知恵だったのかは今の所資料がないので分からない。しかし、宣伝をする側は、このポスターであの夏、日本を完全に騙しきろうとしたのではないだろうか。

私が「耳すま」で一番好きなのはこのポスターなのかもしれない。

おまけ➁:地球屋のジジイの付いた嘘

月島雫が最初に書いた小説を読ませた相手はなぜか地球屋のジジイだった。ジジイと雫が2人で鍋焼きうどんを食べるシーンは結構「いいシーン」となっている。ただ、鈴木敏夫はこのシーンを見てなにか「ピンときた」らしく、どう見ても「濡れ場」だというのである。もちろんそれは近藤監督の思惑ということではなく、絵コンテを切った宮崎駿の思惑だというのだ。まあ確かに言われてみると妙なシーンに感じる。

そういう目線で見ると、ジジイが語った昔話は本当のことだったのか?ということも気になってくる。あまりにも都合よく雫の書いた物語と合致したドラマチックな過去。どうも怪しい。もちろん海外での生活はあったし、惚れた女はいたのかもしれないのだが、ジジイが語った程の美しい物語ではなく、一方的な恋慕のお思いで終わったのかもしれない。

結局のところはわからないのだが、本来ならば「そんな都合のいい話あるかい!」と疑うところであることは間違いないだろう。

まあ、あまりいい映画の見方だとは思わないけれど。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。

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