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クロノ・トリガー「ララ(LALA)の悲劇」—我々が悲劇から学んだもの—

クロノ・トリガー

「クロノ・トリガー」は1995年にスクウェアから発売されたSFC用RPGである。基本的にはタイムトラベルを繰り返しながら「時空を越えて世界を救う」物語であり、様々な時代を旅しながら「ラヴォス」という存在から世界を救うことになる。ゲームシステムや内容もさることながら、使われている音楽が素晴らしく「風の憧憬」が流れた瞬間手を止めた人も多かっただろう。

また、必ずしも本編に関わらない「付加要素」もクロノ・トリガーの魅力となっている。例えば、主人公クロノにとっての過去の世界にある砂漠を、未来で仲間にしたロボが緑化する流れがある。必ずしもロボは緑化に携わる必要はないのだが、緑化することを選ぶと、ロボはクロノと「未来であう約束」をしパーティーから外れる。クロノが未来(クロノにとっての現代)に戻ると、今まで砂漠だった場所が緑に包まれており、その中にある神殿を訪れると、そこにはロボが祀られている。クロノは、見事に砂漠の緑化に成功したロボと400年の時を越えて再会を果たすのである。クロノ・トリガーをプレイしたことのある人にとっては胸の熱くなるお気に入りのイベントの1つであろう。

しかし、400年ぶりの再会を祝うその日の夜、我々は「ララの悲劇」を食らうことになる。

ララ(LALA)の悲劇

ルッカの母ララが車椅子生活である理由

主人公クロノとともに旅をする仲間の一人にルッカという女性がいる。彼女は発明家の父と同様に機械に明るい「科学の子」である。ゲームの序盤で我々は、ルッカの母が車椅子生活をしていることを知るのだが、ほとんどすべてのプレイヤーは、その事実を認識しながらも、あまり気にせずにいたことであろう。実は、ルッカの母が車椅子生活になった原因にルッカが関わっている。実際のところルッカは全然悪くなく、責められるべきは父なのだが、ルッカはそのことをひどく後悔しており、自分を責めている。実際に起ったことは次のとおりである:

ルッカの母は、夫の作った「なんかよく分からない機械」のコンベアにスカートを挟んでしまう。なかなかスカートが取れないので、母はルッカに手伝いを頼む。しかしその時突然機械が動き出し、ルッカの母は挟まったスカートとともにコンベア引きずられてしまう。母はルッカに機械を止めるように言うのだが、ルッカは機械を停止させるためのパスコードが分からず結局母は機械に巻き込まれ、両足の自由を失ってしまう。

どう考えてもルッカは悪くない。しかしルッカは母を救えなかった過去に苦しんでおり「あの時に戻れたなら」と日々考えているのである。

「LALA」か「RARA」か

自責の念に苦しんでいいるルッカだが、ロボとの400年ぶりの再開を果たした夜。みんなが寝静まった頃に、「その日」の自宅に戻るタイムトラベルゲートを発見する。過去に戻ると「パスコードは我が最愛の人」という父のメモを発見する。そしてルッカは上に述べた事故の現場にたどり着く。ここで我々は「やった!これでルッカのお母さんを助けれる!」と一瞬喜ぶのだが、次の瞬間重大な問題に直面する。つまり、ルッカの母の名は「LALA」なのか「RARA」なのかである。私はどうしたかというと、多くの例にもれず「RARA」と入力した。ところが実際は「LALA」なのである。「謎の機械」に巻き込まれそうになるルッカの母を見ながら必死に、何度も「RARA」と入力した。結果、ルッカは、というか私は、悲劇の過去を変えることが出来なかった。このように、パスコードの入力ミスとそもそもの事故をあわせたものが「ララの悲劇」である。

リセットできない問題

さて、たとえ「RARA」と入力したとしても、ゲームなんだからリセットしてやり直せばよいということにもなるのだが、この「ララの悲劇」に関しては、どうしてもリセットする気にならなかった。というよりも、リセットしてはならないような気がしたのである。今回問題にしたいのは「何故このような思いにかられたのか」という事である。実際にリセットしたかどうかに関わらず、パスコードの入力ミスをした人は私と同じような思いにかられたのではないかと思う。

因みに、私が事故の回避に成功したのは3回目のプレイ時である。2回目も失敗し、結局リセット出来なかったのだが、3回目にもなると流石にリセットしても良いような気がして、事故回避のためにリセットを繰り返した。ところがどっこい、「LALA」が正しいとわかっているのにも関わらず、何度「LALA」と入力しても機械が止まらない。どうもある種の「コツ」みたいなものが必要で、「LALA」が正しいパスコードだとわかっても、簡単に機械を止められるわけではなかったのである。やはりあのイベントは他と比較すると異色である。悲劇回避のハードルがあまりにも高い。何れにせよ、我々は「ララの悲劇」で何を学んだのだろうか。

ゲームが提供する「嘘」の美しさと罪

「クロノ・トリガー」という作品は、ゲームシステム、音楽、物語の全てが素晴らしく、まさに傑作なのだけれども、やはり「嘘」の物語である。最も大きな嘘はもちろん、タイムトラベルである。そんなこと我々には出来ない。だが、「こうしておけばよかった」という過去への渇望が、我々にタイムトラベルというフィクションを生み出させたのだと思う。そしてそれはフィクションとしてとても素晴らしく、我々を虜にするし、今後も作られるべきモチーフだと思う。でも、嘘である。俺たちは過去に戻れない。

「ララの悲劇」をしでかした私は「自分がしでかしたことを「なかったこと」にしてはならない」という思いにかられたのだと思う。これこそが、我々が「ララの悲劇」から学んだことだと思う。そして、だからこそ、我々は「修正しなくても良い今」を懸命に生きなくてはならないのである。

以上が「ララの悲劇」から我々が学んだことだとお思うのだけれど、我々が学んだことは、クロノ・トリガーというゲームが持っている基本的な構造の否定である。だって、「クロノ・トリガー」は「なかったことにする」物語なのだから。

さて、この「否定的構造」を考える上で重要なことは、「ララの悲劇」というクロノ・トリガーが持っている構造を否定するような要素を入れ込んだのは、プレイヤーの我々ではなく「作り手」であるという事実である。これは「作り手からのメッセージ」と捉えるべきだろう。つまり—プレイヤーの多くが子供であるという前提で—「タイムトラベルというのは、甘美で、ワクワクして、ドラマチックなトピックスなので、ぜひとも君たちにこの物語を提供したいのだけれど、実際に君たちが生きる現実はもっと苛烈であり、こちらが提供する物語は「嘘」なんだよ」ということではないかと思う。

子供たちを甘美な「嘘」で包み込むことはある意味で「簡単なこと」かもしれないが、それだけを提供するのはやはり「嘘の罪」であろう。クロノ・トリガーはあまりにも面白い作品であるが、それを作った人たちは「子供たちに対する責任」を放棄せず、「自己批判精神」を持った、立派な人達だったのではないだろうか。

まとめ

以上のことをまとめると

ルッカの母「ララ」が車椅子生活になる原因となった事故を「過去に戻る」ことによって回避することが可能なのだけれど、それを回避出来なかった時にそれをやり直す気にどうしてもなれない。それは「自分がしでかしたことをなかったことにしてはならない」という思いから来るものを思われる。結果的に我々は「なかったことにしたかった過去にならないように、今を懸命に生きなくてはならないのだ」ということを学ぶことになる。

その思いは、実のところ、「時空を越えて世界を救う」というクロノトリガーが持っている基本構造と真っ向から対立するものでなのだけれども、作り手の「自己批判精神」と「嘘ばかりを提供してはならない」という子どもたちへの責任が生んだものだったのではないか

ということになると思う。

クロノ・トリガーが発売された当時私は小学生であったが、まだこの世界に関して何も考えずにいられた日々だった。「バブル崩壊」直後の「作り手あった大人たち」が1995年に「世界を変更する物語」を作った思いというのはなかなか感慨深いものがある。あの時代に子供だった我々は「あの時代に作り手であった大人達」の思いをもう一度考えてみるべきかもしれない。

まあ、色々語ってるけど、クロノ・トリガーで「あっ!俺は今すごいゲームをプレイしている!」と感じるの「うろちょろしているちっちゃい魔王」を見たときだよね。あの辺の感じがやっぱりクロノ・トリガーの魅力だね。

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