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耳をすませば】悲劇の男「杉村」を追う!

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「耳をすませば」は1995年に公開された近藤喜文監督による劇場アニメーション作品である。映画の公開当時私はまだ小学生だったが、どうにも興味を持つことができず、結局映画館に観に行くことはなかった。「On Your Mark」が同時上映されていたと知った時の後悔の念と言ったらなかった。あの頃の自分を殴ってやりたい。

そんな忸怩(じくじ)たる思いの対象となっている「耳をすませば」だが、今となってはとても好きな作品である。最初に見たのがいつかはもはや覚えていはいないが、「耳をすませば」という作品をなぜ好きになったのかをこれから考えていこうと思う。

まず注目したいのは我らの愛するモブキャラ「杉村」である。自分に思いを寄せてくれる同級生の女の子がいるのにも関わらず、月島雫に告白して見事に討ち死にした馬鹿野郎であるが、私はどうしてもあいつから目を背けられない。私も中学時代に野球部でサードだったからかもしれないのだが、それ以上に、「杉村」の存在は「耳をすませば」という作品の根幹の一部をなしているとも思われる。そのことについて少しずつ考えていこう。


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耳をすませば」における「杉村」という存在

ジブリの教科書9 耳をすませば (文春ジブリ文庫)(PR)」を読むと分かるのだが、「耳をすませば」が制作された背景に「『少女漫画』を映画化するとはどういうことか」という問題意識があったことが分かる。この辺の問題意識は我々のような「作ってもらっている側」に立っていると非情に分かりづらい。

そもそも少女漫画が原作になっているアニメもすでに存在しているし、映画化だってされている。しかし、映像クリエイター、特に映画監督という存在にとっては「映画化」という言葉の意味が我々のそれとは全く違うのだろう。しかし「分からない」で終わらずに、自分なりに考えることは大事なことだとも思う。

私なりに思うところは「『少女漫画』が持っている極端な主観」を「映画化する」ことも一つの問題意識だったのではないかと思うことによって、考えを進めようと思う。「極端な主観」とは、「キャラクターの周りに現れる例の花」である。主人公にとって何かしらの意味で「圧倒的な存在」が現れるとそのキャラクターの周りには花が現れる。重要なことは「花が現れないキャラクター」が存在している点である。これはひどく辛辣なことで、主人公の主観によって「どうでもいいものとそうでないもの」が決定的に分離されていることを表している。さて、この辺のことを「耳をすませば」はどのように実現したのだろうか?

月島雫の「主観」の物語

映画が始まってしばらくすると、月島雫が図書館の貸出カードを見る以下のシーンがある。

ここで「天沢聖司」の名前を発見する。貸出カードは「うさぎ号の冒険」という本のものだが、このときは1行目に「天沢聖司」の名前があり、6月28日に借りて、7月5日に返却したことが分かる。

他の貸出カードでも同じ名前を見たこと思い出した雫は他の本のカードを確認しに自室に戻る。そこで「炎の戦い」「とかげ森のルウ(5)」「うさぎ号の冒険」の貸出カードが3枚並んでアップで映される。注目すべきは「とかけ森のルウ(5)」である。最初に映ったときは「天沢聖司」の名前は2行目にあり、6月28日に借りて、7月5日に返却していることが分かる(つまり「うさぎ号の冒険」と同時に借りた)。ところが次に映ったときにはその名前が4行目に移動しており、7月26日に借りて7月28日に返却したことになっている

作画ミス?そんな事あるわけ無いでしょ?これは間違いなく意図的に行われた事である。このシーンで「耳をすませば」は宣言しているのである。「この作品は『月島雫の主観の物語』である」と。つまり、あの瞬間月島雫にとって重要なのは「天沢聖司」という「名前」であって、それ以外の情報は「どうでもいい」のである。そういった「どうてもいいこと」を振り切るのが「少女漫画」であり、「この映画はこれで行きますよ」と我々に訴えているのである。

月島雫にとって「どうでもいい存在」である「杉村」

さて、「貸出カード」を使って「宣言」を出したのだけれど、その後その「宣言」は可及的速やかに実行に移される。それが以下のシーンである。

少しでも野球をしっている人ならこのシーンにとてつもない違和感を覚えるはずである。というのも、「杉村」の背番号は「5」である。つまりこいつはサードを守っている。ところがどっこいこいつは右手にグラブをはめている。ということは杉村は左利きということになる(利き腕はボールを投げるのに使う)。

野球を知らない人はピンとこないかもしれないが、サードを左利きが守ることはありえないのだ。内野を守る時に一番最初に大事になるのは「ファーストへの送球」である。ファーストは打者に向かって左側にあるので、もし内野を左利きの人が守ると、ファーストへの送球をするために一旦体をひねることになる。その分時間を食うので、通常内野は右利きが守ることになる。では何故こんなことが起こったのか?

作画ミス?そんな頃あるわけ無いでしょ?もちろん背番号が5であるだけで、別のポジションをたまたま守っているということもありうる。しかし安心して下さい。「絵コンテ(PR)」にも「5番サード」と書いている(私はこの事実を確認するためだけに絵コンテを購入した)。かつて日本において最強のスポーツであった野球の知識が作り手にないわけがないし、長島茂雄がどっちの手にグラブをはめていたかなんて皆知っている(少なくとも誰かは知っている)。

結局このシーンは「月島雫が見ている『杉村』」を表している。つまり月島雫は「『杉村』は友達だけれど、こいつがやっている『野球』なるスポーツにはなんの興味もないし、まったくもって『どうでもいいこと』だ」と思っている訳である。「杉村」が花で囲まれることはないということがこのシーン一発で表現されている。

ちなみに杉村の初登場はこのシーンではない。この直前に後ろ姿の杉村が登場している。その時杉村は左手にグラブをはめている。杉村はやはり右利きなのだ。月島雫の友人である夕子の「喧嘩中」である父親が野球をテレビで見ているのも興味深い。どこまでも「杉村」はどうでもいい存在なのである

もちろん、構造的に杉村が月島雫に惚れていることは明らかだし、不穏な雰囲気は最初からある。大事なことは「構造的」にそうなっていることではなく「映像表現」としてそれがなされていることである。この辺が「少女漫画」を「映画化する」ということの一端だったのではないだろうか。と、私は思う

さて、基本的にこの記事の結論はでてしまっているのだけれど、もう少しだけ話したいことがある。私はかつて杉村の利き腕が右であることを特定すべく作品中の「ヒント」を探したことがある。実際に利き腕を特定できる可能性があるシーンはいくつかある。

杉村のスポーツバッグ

「杉村」の初登場シーンの後で、杉村の利き腕を特定するヒントになるシーンは少なくとも4つ存在している。最初は試験期間の登校中の雨の朝で雫が杉村に声をかけるシーン。杉村は左手に鞄(教科書等を入れるもの)、右手に傘をもっている。通常傘は利き腕で持つものと思われるので、このシーンも杉村が右利きであることを表している。

次は試験中のシーンである。ここで杉村は右手でペンを持っている。もちろんこれだけで利き腕は特定できない。「文字を書くときだけ右」という人は存在しているからである。しかしその後のシーンでまたもや事件が発生する。例の「告白シーン」の直前である。

「杉村」は野球道具が入っているであろう大きなスポーツバッグを左手に持ちながら帰宅途中の雫に話しかける。バッグ以外何も持っていない「杉村」が、どうして左手でバッグを持っているのだろうか。答えは簡単ですよね、この瞬間の「杉村」は「月島雫の主観」の中に入っており、客観的な存在になっていない。したがって「どっちの手でバッグを持っていたかなんてどうでもいいこと」となっている。そして雫にふられた後、杉村は右手でバッグをもってその場を立ち去る(この時カメラは2人を映しているので「雫の主観」ではない)。

そしてその後再び雨の中遅刻しそうな雫と杉村が並列で雨の中を傘を指しながら走るシーンがある。この時杉村は、右手に大きめのバッグ、左手に傘をもっている。重いものを右手に持っているのだからやはり杉村の利き手は右である。

しかしここまで来ると大事なのは利き腕ではない。この時に杉村がもっているスポーツバッグはそれまで持っていたものとは変わっており、大分小さくなっている。そもそもバッグの変化に気づいた人がどれだけいただろうか

杉村は雫に振られた後に、なにか「心機一転」をしなくてはならなくなり、スポーツバッグを変えたのだろう。こういったことは初見では全く気が付かない。しかし「耳をすませば」という作品は「雫の主観の物語」として巧妙に作られているので、実のところ我々は、雫と同じように「『杉村の変化』を完全に無視してしまう」ことによって「雫の主観」を共有しているのである。

ちなみに、なぜ杉村のスポーツバッグが小さくなっているかと言えば、「雫への思い」がもうなくなっているからである。杉村は「重い荷物」をおろしてしまっている。だからバッグが小さくなっているのである。

杉村」に関するまとめ

ここまで延べ的な事をまとめると以下のようになるだろう:

「少女漫画」を「映画化する」ときに問題になったのが「『少女漫画』の持つ極端な『主観』」だったとするならば「杉村」という存在は「雫にとってのどうでもいい存在」の象徴であったに違いない。したがって、「雫の主観」の中にいる「杉村」は「サードなのにグラブが右手」とった奇妙な描写をされる、「耳をすませば」という作品のすごいところは、こういう「雫の主観」を巧妙に描くことによって観客をその「主観」に導いているとことである。我々は見事に「やられた」訳である。

ということになると思う。

今回は「杉村」という存在に焦点を当てたが、次回はもう少し「天沢聖司と月島雫の物語」としての「耳をすませば」を考えていこうと思う。

「ふられた記憶」としての「杉村」の方が、僕たちにとって共感しやすいのかもしれないね!
そうだな、「天沢聖司」に感情移入するやつは「できるやつ」に違いないな。

おまけ:なぜ「杉村」は「天沢聖司」に負けたのか

この記事本編では「『杉村』の物語」を書いてきたが、「天沢聖司」になぜ「杉村」が負けたのかを考えるもの少し面白いと思う。

耳をすませば」という作品中で「天沢聖司」が取った「惚れた女を手に入れる戦略」は通常の人間が思いつけないようなのだった。つまり「女に惚れたら本を読む」である。雫が読書家であることに気がついた「天沢聖司」は、図書館に入り浸って本を読みまっくった。しかも本人に気付かれないように近くにいたこともあるようだ。

こういう事をしている「天沢聖司」を「ストーカー」と揶揄する声もあるのだが、根本的に重要なのは「聖司の興味は雫に向いており、『杉村』の興味は自分に向いていた」ということだろう。恐らく「杉村」は月島雫が読んだ本を一冊も知らないだろう。でも「好き」なのである。根本的に自己愛に基づくその思いが実らなかったのは「むべなるかな」と言ったところだろう。

もちろん「天沢聖司」の取った戦略は中学生だから正当化出来ることだろうから、歳を重ねた存在が真似をしたら本当に変質者である。しかし、「相手に興味をもつ」ということは本質的に重要なことで、それを実現した「天沢聖司」が「杉村」に勝利したのは「当然のこと」だったかもしれない。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。


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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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