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天気の子】「天気の巫女」の本来の役割と作品のメッセージ

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「天気の子」は2019年に公開された新海誠による劇場版アニメーション作品である。前作「君の名は」が大ヒットし、大きな期待の中で公開された作品であった。興行成績は「君の名は」に届かなかったが、十分すぎるヒットであったと思う。

映画が公開されたのが2019年7月19日であったが、その前日の18日に「京都アニメーション放火殺人事件」が発生していた。とんでもない事件が起こった翌日に、予定通りに「天気の子」を見に行ったのだが、「俺何やってるんだろう」と不思議というか、なんとも情けない気持ちというか、とにかく普通の気持ちで見ることが出来なかったことを覚えている。

今回は作品の中で描かれている「天気の巫女」がどういう存在なのかを探ることによって、「天気の子」が結局はどういう話だったのかを考える。そして最終的に「天気の巫女」の歴史を再構成しようと思う(あくまで個人的見解にすぎないけれど)。そのためにまずは、この作品ならではと思われる映像表現について振り返り、2つの疑問を提示することから始めようと思う。


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雨の姿、「浮かぶ」シーン

疑問1:嬉しそうな雨たち

「天気の子」における最も重要な要素はもちろん「雨」であるが、この作品の序盤は「晴れ女」として陽菜が雨模様の空をその祈りによって晴れの日に変えていく。

そして青空がどれほど素晴らしいものか、そして天気というものがどれほど人の内面と関わるものなのかということがこれでもかと語られる。描かれる青空は本当に美しいし、花火大会の日に陽菜が人々に見せた夕日の美しさと言ったら言葉にならないほどであった。本当に空が晴れているということは我々にとって素晴らしいものである。

このように物語の序盤では「忌み嫌われている」雨だが、実際の描かれ方をみると、地上に降り落ちる雨が極めて生き生きと描かれている

どうも映像的には「忌み嫌われるもの」としては描かれてはおらず、そういうものとは無縁な無邪気な存在のように見える。このようなある種の矛盾が発生しているのは何故なのだろうか?

疑問2:ぞっとする「浮かぶ」シーン

天気の子の持つもう1つの特徴は「浮かぶ」表現である。作品中に「浮かぶ」シーンは以下の2箇所である。

  • 最後の「晴れ女」としての仕事を終えた後、帆高が懇親の勇気を振り絞って陽菜に告白しようとした直後、陽菜の体が突如宙に浮く。
  • 物語の終盤、ビルの屋上にある鳥居をくぐり天空の世界に移動した後、雲の上の世界にいる陽菜の周を浮かびながら、帆高は陽菜に手をのばし救おうとする。

この2つのシーンの重要な特徴は、「浮く」ということが全くワクワクする現象として描かれていないということである。

そしてむしろぞっとするシーンとして描かれているように私の目には写った。最初のシーンは陽菜が地上から連れ去られそうになるし場面であるし、彼女の身体的な変化が明らかになる場面でもある。あそこだけ妙にホラーチックな怖さがある。

また2つ目のシーンでも、帆高はプカプカ浮かびながら陽菜の周りを回っているのだが、どう考えても手が届く気配がない。そして実際手は届かない。あれほどまでに懸命に救おうとした人が目の前にいるのに、全然救えなさそうである。

「浮かぶ」という現象はアニメーションなどのフィクション世界の妙技であると思うし、通常はもっと「素晴らしいもの」として描かれるものだろう。なにせ人類の夢ですから。ところが「天気の子」では、それが真逆の意味をもつ現象として描かれている。一体なぜなのか?

以上で2つの疑問を提示し終えたので、まずは1つ目の疑問に対する解答から述べることにする。

地上に帰ろうとする雨と「天気の巫女」の本来の役割

雨は地上に帰りたがっている

「『忌み嫌われる存在』である雨が生き生きと描かれているのはなぜか」という疑問に対する1つの解答は「雨は地上に帰りたがっているから」であろう。

思えば空で優雅にプカプカ浮いている雲は、かつては地上にいた水なのだ(もちろん殆どは海だろうが、それでも空にはいなかった)。「雨が降る」という現象は、実のところ「空に旅立った水がふるさとに帰ってきている」という現象であると考える事もできる。

地上に降った雨たちは「いや~やっと帰ってきたぜ。なつかしい~!」と久々の帰還を喜んでいるのではないだろうか。久々に地元の友達と語らうこともあるだろう。そんな喜びが爆発していたのが、帆高と陽菜が天空の世界から帰還した後、大雨が降り出す直前のカット。天空の龍が地上に帰還する圧巻のシーンである。

アナベル・ガトーの「ソロモンよ、私は帰ってきた!」と同じようなパワーを感じた。やはり彼等は帰ってきたのである。

雨の帰還を阻止する人類

このように考えると、我々が持っている「雨に降ってほしくない」という感情は少々勝手な感情にも思えてくる。もちろん雨水は我々人類の生活に非常に役に立っているので、全然降らないと困ることも知っている。

しかし、そういう自分達の役に立つとか立たないとかいう問題以前に、ふるさとに帰ろうとする雨たちの気持ちをもう少し考えてやっても良い気もする。「晴れ女」として陽菜と帆高がビジネスにしてしまったことは、ようやくふるさとの駅に降り立った人に「帰れ!」と言っているようなものだったのではないだろうか。

「天気の巫女」がその超常の力をもってそういう「無茶」を繰り返すたびに、本来地上に所属している巫女は空に奪われてしまう。雨の立場からすれば「それくらいのリクスは負ってくれよ」と言ったところなのだろう。

 

しかしそれでは「天気の巫女」のちからを受け継いでしまった陽菜の運命はあまりにも呪われている。何故巫女はそんな運命を背負うことになったのだろうか。それを解く鍵は、帆高と陽菜そして凪の逃避行のシーンで発生した不可思議な現象にある。

物語の終盤、警察から逃れるために陽菜はその祈りによって雷を落としたのだが…どうもおかしい?我々は「天気の巫女」が持つ超常の力は雨を払うことだと思っていたが、それだけはないようだ。

ここからいよいよ想像の羽を広げ、妄想に妄想を重ねることで「天気の巫女」がたどった歴史を再構成していこう。

「天気の巫女」の本来の役割とその悲しい歴史

陽菜が雷を落とすシーンでは「陽菜の祈りによって雷が落ちた」という事実そのものも確かに重要なのだが、それ以上にひなの体に起こった変化が重要である。

陽菜が雷を落とすシーンは

  • 警察に取り押さえられる帆高を助けるために「お願い」と言いながら陽菜が顔の前で手を組むと、左の手の甲付近まで「透明化」が一瞬進む。
  • その後雷が落ちると、その「透明化」が収まっていく。

という流れになっている。

「『透明化』が収まっていく。」という部分に関しては異論があることは重々承知している。普通に考えれば透明化は収まっておらず、「偶然見えなくなっている」ということになるだろ。結果的にホテルでの帆高の衝撃がより大きくなっているわけである。

しかし以降は「収まっていく」という解釈で進む。したがって以降の文章はこの見方に納得できない人にとっては無用の長物となる。

もちろん反論はあるだろう。だってその後ホテルでの状況を確認すると、陽菜の体の透明化はむしろ進んでいるし、左手がほとんど透明になっている描写もある。だが、この透明化の進行は「雷の召喚」によるものではなく、再び「雨を払う」ことを決意したためである。

というのも、陽菜が自分の体を帆高に見せる直前、帆高がようやく指輪をプレゼントすると、陽菜は「ねえ、帆高はさ、この雨がやんでほしいと思う?」聞くのだが、それに対して帆高は「え、あ~、うん」と答えてしまう。この時に陽菜は「雨を払う」決意をし、そのため透明化が進行(手を組んで祈った状況と同じ)、その夜のうちに祈りを行った陽菜は完全に空に持っていかれたのである。

このような「透明化」の進行と収束という相対する現象に「天気の巫女」の本来の役割が隠れているように思える。つまり、「天気の巫女」の本来の役割は「雨を払う」ことではなく「空と人類との対話を仲介すること」ということになるだろう。人類にとって雨は恵みであると同時に脅威である。我々は基本的に雨を忌避するが、日照りが続けは暴風雨ですら恵みとなる。

そんな人類と空とのパイプ役を行ってきたのが「天気の巫女」だった。人々が雨に降ってほしくないときには空にお願いして雨に止んでもらう。その代わりに自分の一部を空に献上してきた。その一方で「空の都合」も聞き、「ここは少し我慢しましょう」と人々に伝えていたはずなのである。そしてその功績に免じて、空は奪った体の一部を再び巫女に返していたのではないだろうか?

したがって、人々が天候というものとなんとか上手くやっているうちは、「天気の巫女」は空に奪われきりはしない。つまり人柱にはならないのである。

ところが、人類が天候と上手くやれなくなり、「天気の巫女」が一方的に人類の要求を点に伝える存在に変わっていった。こういう人類の変遷の一端が、陽菜の劇中のセリフの中に現れている。彼女は「晴れ女が人柱となって消えることで、狂った天気はもとに戻るんだって」と語っていた。ここで大事なのは「狂った」いう表現である。空は狂っているのだろうか?この件に関しては、物語の中盤に登場した宮司の言葉も忘れてはいけない。

物語の中盤、「天気の巫女」が見た景色を描いた天井画を持つ神社の宮司の言葉が登場するが、そこでは「異常気象」の何が「異常」なのかということが問題にされる。宮司が語ったことを要約すると「異常かどうかは人間の勝手」という事になるが、この感覚が「天気の子」における基本的な「自然観」と思われる。

一見我々にとって狂っているように見える気象現象も、彼等からすれば「ただそのようにあるだけ」にすぎない。しかし、そういう彼等の事情を何も考えず、「異常」としてそれを排除するようになると、「天気の巫女」はただ一方的に人間の都合を伝える存在となり、いつしか人柱として認識されるようになった(「天気の巫女」ではなく「晴れ女」と認識される様になった)。

このように考えると、例の雷のシーンは「天気の巫女」が久方ぶりに空の都合を聞いた歴史的なシーンということにもなるだろう。雨と同様に雷も落ちたがっているので、雷に対して「落ちていいですよ」と願った陽菜に、空は奪った体の一部を返したということになる。

以上のことが1つ目の疑問に対する解答と、そこから見える「天気の巫女」の本来の役割とその歴史である。続いては2つ目の疑問「『浮かぶ』シーンがぞっとするのはなぜか?」という疑問に対する解答を述べる。

呪い」からの開放と「落ちる」喜び

「落ちたい」二人

ここまで考えてきたように、陽菜はすでに人々が「天気の巫女」を「晴れ女」としか認識でなくなっている世界でその力をもってしまった。その力が特別なものであることは確かだが、結果的には「呪い」というべきものといえるだろう。しかし陽菜は、帆高や凪のためにその呪いに殉じる道を一度は選んでしまったことになる。

したがって、帆高最終的にしでかしたことの意味は「陽菜の『呪い』からの開放」といえるだろう。しかしそれは他の人々にとっては大変に迷惑な話であった。実際、パイプ役としての巫女がいなくなり、人の都合を聞かなくて良くなった空はなんと3年にも渡って雨を降らせ続けている。ただそれは、「人類の業」が帰ってきているだけのことである。たった一人の人間を「晴れ女」として使ってきたのだから。

一方の帆高も、別に自分が生きる世界に満足しているわけでもなく、わざわざ「ここではないどこか」を探しに東京にまで来ている。帆高も「こうあるべき」という周りの世界から課せられる「呪い」と戦っていたのである(陽菜もそうだったが)。

そんな陽菜と帆高は、雨が降りたがっているのと同様に、ずっと「落ちたかった」のである。そして物語のハイライトとして、陽菜と帆高は本当に落ちていった。

2つ目の疑問として提示した「『浮かぶ』シーンがぞっとするのはなぜか?」という疑問の答えは、それが彼等の内面の真実と真っ向から対立するものだからである。陽菜と帆高は自分達を放っておいてくれない世界から逃れたいと考えているおり、そんな二人にとっては現状に甘んじることのほうが、浮ついていて、地に足が付いていなくて、生きている心地がしないのだ。彼等はずっと「落ちたい、落ちたい、落ちたい」と願っていた。

そんな二人が落ちてい姿と、生き生きと降る雨が見事に並列されているのである。

つまるところ「天気の子」は「落ちる喜び」を描いた作品であり、作品のメッセージがあるとすれば「落ちていくのもいいじゃない?」ということになるかもしれない。。

エンドロールで表現する「循環」

ここまでのことでだいたい終わりなのだが、エンドロールについても少し書こうと思う。

「天気の子」を初めて見た時に思ったことの1つが「エンドロールが2回もある」ということだった。

陽菜と帆高がラスト再会を果たした後、画面の上から声を担当した人の名前が落ちてくる。非常に美しいエンディングで「この手があったか!」と思ったのだが、最後に「新海誠」の名前が出ても映画が終わることはなかった。その後再び通常のエンドロールが始まり、下から名前が上がってくる。

一瞬くどく感じるのだが、これは結果的に「循環」を表現したことになるのだろう。「天気の子」は「落ちる」物語だったが、地上に降り立った雨たちは再び空に帰っていくのである。下から上へ登っていくエンドロールは、何かしらの意味で上がっていく陽菜と帆高の未来を象徴してるのかもしれない。

まとめ:「天気の子」のメッセージ

以上の事をまとめると:

「天気の子」は「晴れ女」という存在を置くことによって、青空の素晴らしさや「天気が良い」ということがどれほど人々にとって素晴らしいものなのかを序盤で描いている。

一方で、「晴れ女」はかつて「天気の巫女」であった存在の「なれのはて」であり、空との対話を忘れ、雨を払うことしか考えられなくなった人々の傲慢の象徴である。そんな力を持ってしまった陽菜はまさに「呪い」をかけられた存在であり、帆高はその「呪い」から陽菜を開放しようとしていた。

しかし「呪いからの開放」は空と人間とのあいだにあった一本の細い糸を失うことであり、空との対話が出来なくなることも意味する。結果的に二人は「やまない雨」を生み出してしまった。そういった事をすることは、本来人の道から外れ「落ちる」ことであるだろうけれど、二人を抑圧し続けた世界に殉じる理由は彼等にはない。それどころか、生き生きと描かれた雨と同様に、落ちていく二人はなんとも清々しく、ようやく自分を取り戻したようでる。

「天気の子」はこのような本来なら忌避されるような「落ちる喜び」を描いた作品である。本作品のメッセージを一言で述べるとすれば「落ちていくのもいいじゃない?」ということになるかもしれない。

この記事を書いているうちにどんどん「天気の子」が好きになった。もちろん雷に関しての妙な理解に基づいた記事なのだけれど、そうやって映画を見ることも映画の醍醐味だとも思う。次回はラストのセリフ「陽菜さん、僕たちはきっと、大丈夫だ」について考えてみよう。一体何が「大丈夫」なんだろうか。

一番好きな新海誠監督作品は?
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シフルはどうなんだい?
ひじょう~に難しいが、一番最初に見た「雲のむこう、約束の場所」かな。明日は違うことを言ってるかもしれないけど。

 

おまけ

➀雲の上が緑でいっぱいな理由

「天気の子」といえば、やはり雲の上の世界がその魅力の1つだろう。あれが一体何のかについては今の所面白い曲解がないのでなにも言えないのだが、「何故上面が緑でいっぱいなのか」についてはある程度の推察ができる。

ポイントとなるのは帆高が鳥居をくぐって天空の世界に行ったときである。最初帆高は天空という寄りは宇宙に放り出され、そこから落ちて龍神の世界にたどり着くが、そこで龍神に「食べられて」しまう。龍神の体内を通った帆高は1段下の世界に落とされ、「天空の園」に横たわる陽菜を派遣する。

みなさん。帆高は龍神の体を通ったのです。したがって帆高が出てくるところは唯一つ。龍神の肛門である。

つまり、雲の上が緑でいっぱいなのは、「龍神のあれ」のおかげで極めて肥沃な環境ができあがっているからだろう。龍神の肥料だからそれはそれは栄養満点に違いない。もちろん、悪ふざけで言ってるんですよ。

➁気象神社の天井画の違和感

気象神社の天井画のシーンも、「天気の子」の中で印象的に残っているシーンの1つだと思う。しかしどうも違和感がある。あそこに描かれている神獣は4種類であが、作品中に明確に出てきたのは龍神だけのように見えるのだが、おそらくそうではない。

「天気の子」では大雨4回描かれている。帆高がフェリーで食らった大雨(本当はその前の日は台風だった)、帆高が陽菜の能力を最初に見たシーンの直後の大雨、陽菜と帆高の逃避行時の大雨(というか雪)、そして最後が3年降り続く雨である。

恐らく台風などで大雨が降っているときには、あの神獣が地上に帰ってきているのである。実際最初の2つの後には妙な水の塊が落ちてきている。多分あれが神獣である。3回目もどこかで落ちていたのだろう。ただ4回目が大問題である。台風は何度も起こるが、3年降り続く雨なんて人類未曾有の現象である(ノアの方舟事件ですら40日だったそうな)。

恐らくあの世界では龍神が一番偉くて、そうそう降ってくるものではないのだろう。それが「天気の巫女」との契約が切れたので「え?俺行っちゃうよ!」と帰ってきた。したがって、あの雨も有限時間で降り終わると思われる。ただ、その有限時間がいつ訪れるかは分からない。

➂対ラピュタ戦

「天気の子」みているとどうしても意識してしまうのが「天空の城ラピュタ」である。帆高がぷかぷか浮かびながら陽菜に手を伸ばすシーンを見ると、フラップターに乗ったバスーがシータに手を伸ばすシーンを思い出す。ただこの2つのシーンは「悲壮感」が全く違う。パズーのシーンはものすごく決まったかっこいいシーンなので、その後にシータを奪還する未来がありありと見える。ところが帆高の方は本当に手が届きそうにない。私にとっては十分なホラーシーンだった。

また、落ちるシーンも良い対比になっていると思う。ラピュタで落ちるシーンはやはり「危ない」シーンになっており、飛行石の力で減速するところがロマンチックである。

ところが「天気の子」はその真逆で、変な力で浮いている方が危なくて、自由落下するシーンの方がロマンチックである。陽菜が雲の上から全速力で飛び降りて帆高のてを取るシーンも、とても力強いシーンになっていると思う。シータも結局は飛び降りることによってパスーにキャッチされるが、あの全力疾走には勝てないだろう。

もしかしたら「天気の子」は「自由落下のロマンチックさ」を描くことによって「対ラピュタ戦」を挑んだのかもしれない。

➃もののけ姫

「呪い」の話しで思い出すのは「もののけ姫」である。あの作品は「不条理な呪い」を受けた上に、ふるさとの人々から「出ていけ」と言われた主人公アシタカが、生きる目的を再発見する物語であった。

「天気の子」では「呪い」を受ける役を陽菜が、「出ていけ」と言われる役割を帆高が演じていたのではないだろうか。物語の始まりのシーンで自転車を来いでる帆高の顔はなぜか傷だらけである。あれは一体なんだろうと考えてみたのだが、恐らく父親と大喧嘩をしたのではないかと思う。

物語の後半で、帆高を探す警官が陽菜に見せた帆高の写真にはなぜか父親と思しき人だけが隣に写っていた。そしてその顔はなんとも気難しそうである。恐らく取っ組み合いになるぐらいの大げんか(あるいは父親の一方的な暴行)の後、父親から「出ていけ!」と言われたのではないだろうか。

そんなアシタカを2つに分けたような主人公たちが「僕たちは大丈夫だ」と自分の存在をようやく肯定できるようになった話しにもなっているのだろう。

アシタカの「呪い」はよく考えると「神の力」でもあるので、陽菜の場合も、祈るたびに体が空に奪われるのではなく、どんどん神聖なものに近づいていると考えることもできるだろう。そしてある臨界点を超えると人間の世界に帰ってこられなくなってしまう。

だから神の力を捨てれば戻ってこられるのだけれども、帆高のように「彼岸にたどり着くもの」がいてくれないとそれが出来ない。これまでの「天気の巫女」にはそういう人がいなかったので「人柱」としてあの地に眠っているに違いない。あるいは雨として降ってきたのだろうか。降ってきたと考えると、あの作品は新海監督の死生観も絡んでくる作品ともなってくる。

「天気の子」はもう少し一生懸命見てみる必要がありそうだ。

➄雷のシーン普通に捉えるとどうなるか。

この記事の本編では、あえて曲解することによって物語を捏造したが、曲解しなければどうなるかも書いておこう。

曲解しなければあの時の陽菜は「空と一体化」していることになる。なんか分かるような分からないような表現だが、恐らく天空の世界の一員になりかけているということなのだろう。そして、帆高たちとの逃避行という苦難の中にいる仲間を助けるために、天空の世界の連中が集まってきたのである。

雷が落ちるシーンも、陽菜の具体的な要望というよりは「助けて」というぼんやりした要求に対して仲間が応じたのだろう。しかしそのために陽菜はより一層そらの世界に足を踏み入れることになる。そしてその後、もうほとんど仲間になった天空の存在に「ちょっくらどいてくれねえか」とお願いすると、彼等は「OK!じゃあ一緒に行こう!」と陽菜(仲間)を連れ去った(連れて行った)のである。

その後の流れは本編と一緒で構わないと思うが、「『天気の巫女』は本来人柱にはならない」という物語は完全に消滅する。単に恐れを失った人間に酷使される事によって人柱になって来たのである。しかも人々はその犠牲すらわすれ、その才能だけを受け継いだ陽菜は「お母さんに青空を見せてあげたい」という切なる願いによってその能力を発動してしまったのである。それこそ切ない話だ。

「もののけ姫」でアシタカがサンに会えたことがはまさに福音であったが、陽菜が帆高に出会えたことも同じく福音だったと言えるだろう。なにせ彼岸まで追ってきてくれたのだから。イザナギとイザナミのようにならなく本当に良かった。


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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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