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【あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない】その題名の意味と我々にとっての幽霊

「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」は2011年にノイタミナ枠で放送されたTVアニメである。

この作品が放送された当時はまだ学生で、テレビをつけながら勉強しているときに流れてきたのを偶然見たことを憶えている。

そんな「あの花」だが、妙に気になるのがその題名である。今回はやたらと長くて印象深いこの題名の意味を考えながら、結局「あの花」はどういう話だったのかを考えていこうと思う。

最終結論を先に述べるならば、「あの花」は「我々にとって『幽霊』とは何か。」という問いに対する美しくも残酷な答えだったように思われる。とりあえずは題名の意味から考えていこう。

「あの花」の題名の意味

早速「あの花」の題名の意味について考えていきたいが、その補助線となる曲を紹介しようと思う。

その曲は伊奈かっぺいという方の作詞作曲による「ひとつとひとつ」という曲である。その曲は次のように始まる

花のなを ひとつ おぼえて ひとつ おとなになる

現在曲そのものを聴くのは困難を極めるような気もするが、メロディーもなかなかに美しい曲である。一部地域ではテレビでこの曲が流れており、昔の記憶としてとどめている人もそれなりの数がいるものと思う。

何れにせよ、「花の名前を一つおぼえる」ということは「ほんの少し昨日と違う自分になること」であり、結局はほんの僅かに「成長する」ということを表している。

そして「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」という題名は「花のなをひとつおぼえてひとつおとなになる」という表現を見事に裏返しているものになっていることに気がつくだろう。

ということは「あの花」の題名の意味は、

僕たちはまだおとなになれない

ということになるだろう。では、彼らはなぜ「おとな」になれないのか、めんまはなぜ彼らの前に現れたのか?そして「あの花」とは結局どういう話だったのか?

じんたん達の誤解と我々にとっての幽霊

じんたん達の誤解

「あの花」という物語は、かつて非業の死を遂げた「めんま」こと本間芽衣子(ほんま めいこ)が主人公「じんたん」こと宿海仁太(やどみ じんた)の元に現れることから始まる。

じんたん は めんま にその出現の理由を問うのだが、何かをしてほしいような気がするのだがそれがわからないという途方も無い返答をする。困り果てた じんたん だったが、めんま がその死を遂げるまで、「超平和バスターズ」なる軍団として仲良く遊んでいた幼馴染たちと彼女の願いを叶えようと奔走する。

彼らは最終話直前に、デカい花火を打ち上げることによって彼女の願いを叶えようとしたが、その後も めんま が消えることはなかった。

結局彼らは-そして めんま本人も-根本的な誤解をしていた。

めんま は何かを叶えてほしくてこの世に現れたわけではない。彼女は彼らが求めたから再びこの世に現れたのである。

さて、どういうことだろうか。

美しくも残酷なラストー幽霊とは何かー

めんまが現れた理由

「あの花」本編開始時に主人公たちは高校生になっており、お互いに疎遠になっている。

そんな生活の中で、じんたん を始めとする「超平和バスターズ」の面々は様々な悩みを抱えながら生活している。主人公の じんたん に至っては登校拒否の状態になっており、必然的に引きこもり状態にもなっている。

そして彼らはその状況をよろしいものとは思っていないのである(当然かも知れないが)。

彼らはなんとかして次の一歩を踏み出したくてあがいていたのだが、そんなときに彼らが思い出したのが非業の死を遂げた旧友 めんま のことだったに違いない。あるいはずっと引っかかっていたものが、本編の段階で隠しきれないものになってきていたとも言えるのかもしれない。

もちろん彼らの苦境と めんまの死には直接的ない。それでもなお彼らは自分たちが積み残してしまったもの、きちんと向き合わずに済ませてきてしまったものに向き合わざるを得なくなってしまった(花の名前をしらないままではいられなくなった)。

そしてそんな彼らの思いに応えて現れてくれたのが 幽霊の めんま だった。

最初 じんたん 達は めんま が求めた何かを探してしまったが、結果的にはその間に自分自身が抱える問題とようやく向き合うことができた。そしてこれこそが めんま がわざわざ幽霊となってもう一度じんたん達の前に現れた理由だったのである。

つまり、めんま は じんたん達が抱える問題を見つめる機会を与え、次の一歩を踏み出させるために現れたのである。しかも、じんたん達がそれを内心望んでいたからである。

美しくも残酷なラスト

わざわざ めんま が現れてくれたおかげで じんたん 達はなんとか前向きな状況を得ることができたのだが、最後の問題が残る。つまり めんまの「退場」である。

やはりいつまでも めんま にいてもらうわけにも行かないので、なんとかして めんま に退場してもらわなくてはならない。

そして「あの花」のラストで描かれたのは「かくれんぼ」だった。

結局は、めんま が求めていたことはきちんとみんなと遊び終わることであり、自分を見つけてもらうことだったという形にはなっている。もちろんそれで良いのだけれど。やはり我々が認識スべきなのは、最も解決したのは じんたん達の個人的な問題であるという点である。

じんたん以外の「超平和バスターズ」の面々はようやくラストシーンで めんま に出会うことができたのに、彼らはなぜか消えゆく めんま を見送ることができている。じんたん ならまだしも、他の連中はもう少しごねても良さそうなものである。

彼らが めんま を見送る事ができている理由は、最も残酷な表現をすると、彼らにはもう めんま が必要ないからということになるだろう。

なんとも寂しい結論ではあるが、我々にとっての「幽霊」とはそういうものなのではないだろうか。

我々にとっての幽霊

残念ながら、私は生まれてから今に至るまで「幽霊」なるもを見たことはない。霊感があると言い張る知人は複数人知っているが、今の所私の前に「幽霊」が現れたことはない。

そういう私なので、スピリチュアルなレベルというか神秘的な意味における「幽霊」の「存在」や「実在」は信じてはいない。

しかし、「幽霊に会いたい」という人の願いなら理解することはできる。

そして、我々にとっての「幽霊」といはそういうものであろうとも思う。つまり、我々にとっての「幽霊」とは、我々の願いによってそこに現れてくれる存在であり、死んだ人に会いたいという我々の願いの結晶と言えるのではないだろうか。

もちろん「番町皿屋敷」などの怪談も存在しているわけだが、これはいわゆる相手に対する「畏れ(おそれ)」から、見たくもない存在を結局は自分が引き寄せているわけである。「会いたい」と思うことと「会いたくない」と思うことは、特定の対象に対する強い思いであるという点で何ら変わりがないのである。

さらに、いわゆる「地縛霊」なる幽霊の形態も存在している。それこを我々が願ってそこにいる類の「幽霊」ではないようにも思われるが、これも個人的には我々の願いによってそこにいてくれる存在と思っている。つまり、我々は、死んでいった人の思いを無視したくないのである。それが非業の死を遂げた存在ならいよいよである。少々おどろおどろしいイメージのある「地縛霊」も、そんな我々の願いが見せるものだろう。

つまり、我々にとっての「幽霊」とは「望んだときに現れてくれて、必要がなくなったときに消えてくれる」という極めて都合の良い存在としてずっと我々に寄り添ってくれた存在と言えるのではないだろうか。

そして、だからこそ、我々は「幽霊」をぞんざいに扱えないのであろう。

「日本の幽霊もの」としての「あの花」

「幽霊」というものをこのように考えると、「あの花」はまさに「日本の幽霊もの」だったのではないだろうか。

めんま は結局、じんたん達が最も苦しいときにふっと現れ、彼らの問題が解決に向かったところで消えていったということになる。考えれば考えるほど切ない話だが、それでもなお、じんたん達が めんま の願いを叶える物語として描いてくれたことは制作側の見事な工夫だったのではないだろうか(俺も感動したし、みんなも感動したよね?)。

酒を飲んでいるときにふと「あの花」のことを思い出して好き勝手書いてしまったが、個人的には色々と納得のいくまとめができたように思える。

皆さんにとって「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」はどういう物語でしたか?

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