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「秒速5センチメートル」は鬱でもなければ酷くもない【「秒速」の前向きな見方】

「秒速5センチメートル」は2007年に公開された新海誠監督による劇場版アニメーション作品である。公開当時はすでに新海誠監督のことはすでに知っており、少なくとも「雲の向こう約束の場所」は確実に見ていたと思う(「ほしのこえ」は微妙なライン)。

「秒速」といえば、「鬱々とした物語」、「酷い物語」として語られることが多いような気がするし、私も基本的にそんな見方をしていたと思うのだが、「秒速」は全然そんな話ではないと今では思っている。「秒速」がいかに前向きで、まったく鬱々としたところがない作品だということを話してみようと思う。とりあえずは第一話を大まかに振り返ることから始めてみよう。

「秒速5センチメートル」のあらすじはこちら

「秒速5センチメートル」は鬱でもなければ酷くもない

第一話「桜花抄」–「バディー」になったふたり–

「秒速5センチメートル」の第一話「桜花抄」は、主人公貴樹の小学生から中学生の間を描いており、一見ヒロインに見える明里との恋の物語を描いている。惹かれ合う2人は親の事情で離れ離れになってしまうのだけれど、その距離を埋めようとする貴樹は、電車に乗って孤独な旅を続け、最終的に明里と再会する。「特別な夜」を過ごした2人は、実のところ用意していた手紙をお互いに手渡すこともなく離れて行く。

力強くも切ない物語だが、大事なのはこの話の終わりの貴樹の「かたり」である。貴樹は明里との再会を果たした後で次のように語る:

「僕たちはこの先もずっと一緒にいることは出来ないと、はっきりと分かった。僕たちの前には未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした弛緩が、どうしようもなく横たわっていた。でも、僕を捕らえたその不安は、やがて緩やかに溶けていき、あとには、明里の柔らかな唇だけが残っていた」

この語りの後2人は「特別な夜」を過ごし、その次の朝を最後に離れ離れになってしまう。ここで大事なのは「僕たちはこの先もずっと一緒にいることは出来ないと、はっきりと分かった。」という言葉である。あの日2人は互いに思い合っていたことを確かに確認したのだけれど、完全に「さよなら」もしているのである。

第2話以降で貴樹が明里のことを「引きずっている」と考えるのは間違っている。確かに第一話のラストで「彼女を守れるだけの力がほしいと強く思った」と言っているので引きずっているようにも見えるのだが、これは引きずっているのではなくて「もっとつよくなろう」という意思表明であって、明里への未練ではない。

明里自身も渡そうとした手紙を貴樹に手渡せずに終わるが、彼女も思ったことだろう「貴樹を引き止めるくらいに強くなりたい」と。

つまりのところ「秒速5センチメートル」の第一話「桜花抄」は、自らの幼さ、力のなさ、自分たちが立ち向かわなくてはならない人生の問題、といった種々の問題を「生まれてはじめて共有した相手」を発見した物語になっている。

あの第一話で貴樹と明里は「どうしても意識してしまうあいつ」になったのだと私は思う。男女の物語になっているので分かりづらいが、決してお互いに引きずっているのではなく、人生の事ある場面で「あいつどうしてるかなあ~」と最初に思い浮かべる対象になったのだ(「ラ・ラ・ランド」とか「ブレスオブファイア」を思い出せば良いと思う)。

このように考えると、第二話「コスモナウト」における不可思議なシーンの説明もつく。

第二話「コスモナウト」–宇宙の深淵のように遠い未来—

「秒速5センチメートル」第二話「コスモナウト」におけるもっとも不可解なシーンは「貴樹と『明里と思われる存在』の2人が眺める空に存在する地球のような存在」であろう。どうもあれの存在のせいで「コスモナウト」がわかりづらくなるのだが、結局のところ「貴樹が抱えている未来の不安の象徴」である。

第二話「コスモナウト」では「孤独な宇宙の旅」が語られたけれど、それは未だ存在していない自分の未来と戦う若者の孤独そのものである(まあ、年食ったって同じことだけれど)。第二話は「貴樹に恋をしている花苗の物語」となってはいるが、彼女が抱えている問題は貴樹も抱えている。結局は「花苗の言葉で貴樹の未来への不安を語る物語」となっていることになる。

貴樹は別に明里に対する恋慕の思いが残っている訳ではなく、自分の将来への不安と直面しており、そんな時に「あいつはどうしているだろう、俺と同じように悩んでいるだろうか、それとも明確な未来をイメージ出来ているだろうか」とまだ宙ぶらりんな状態にいる自分を奮い立たせているのである(あるいは自分を卑下している)。そういった不安の象徴が「地球のような天体」である。ようは「ああ、自分はなんてちっぽけな存在なんだ、深遠な宇宙のようなこれからの人生を俺はどうやって生きていけば良いんだ」という思いの象徴である。

第三話「秒速5センチメートル」–新たな一歩–

ここから問題の第三話「秒速5センチメートル」である。

第三話はどういう話だったのか?

第三話の貴樹はずっと重苦しい顔をしている。間違いなくよろしくない状況にいるわけだが、どのように「よろしくない」のだろうか。それについては貴樹本人が語ってくれている:

「この数年間とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いが、どこから湧いてくるのかも分からずに僕はただ働き続け、気づけば日々弾力を失ってく心がひたすら辛かった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実だった思いが、キレイに失われていることに僕は気づき、もう限界だと知った時、会社をやめた」

「コスモナウト」の貴樹がそうであったように、就職した貴樹も「前進を続けなくてはならない」という思いにかられていたのだけれど、仕事に追われそんな思いが消えていってしまった。忙しくてもそこに充実があればよいのだけれど、全くそれがなかったのだろう。組織の一員としてその利益を最大化する日々に貴樹は耐えられなかった。

彼女と上手く言っていないのもこれが原因だろう。

貴樹は交際中の女性からメールで別れを告げられる。どうも心の距離は1センチも縮まらなかったそうだが、どうしてそんな事になったのか?別にまだ明里のことが心にあるからではない。貴樹は「仕事が充実していないとプライベートを充実させられない男の間抜けな悲哀」にはまり込んでいるのである。仕事は仕事、プライベートはプライベートで分けてしまえばよいのだけれども、どうしてもそうならないのが男の馬鹿なところである。貴樹は仕事での充実がないので、彼女との関係もどうも空虚で、本気になれない。

で、ここまでが第三話の概略だが「結局第三話は『いい話』なのか?」ということが大事なのだが、もちろん「いい話」である。それは第三話の冒頭見れば明らかで、貴樹はフリーランスとして働いている。彼は「何かが違う」という思いの中で組織の一員として働いていたが、実力はあったのである。

つまり第三話は「自らの現状に疑問を持ち続けた一人の男が一念発起して会社をやめ、『フリーランスとして生きる』とう自分らしい生き方にようやくたどり着いた」話になっている。絶対にいい話だ。そして、貴樹の「新たな一歩」と対応するように、明里も結婚という「新たな一歩」を踏み出している(女性の一歩を結婚にしてしまうのはあまり現代的ではないとは思うけれど)。

何が「秒速5センチメートル」だったのか。

この作品で語られる「秒速5センチメートル」は桜の花びらが落ちる速さだけれど、何故第三話の題名も「秒速5センチメートル」なのか?私が思うに、第三話における「秒速5センチメートル」は「懸命に生きる人々の小さな歩みの速さ」である。

秒速5センチメートルは分速にすると3メートルとなる。相当ゆっくり歩かないとこれは実現できない。というかほとんど進んでいないように見えるだろう。

貴樹の日々もそうだったに違いない。別に就職してからだけでなく、「しっくりこない」日々のなかで彼は「自分が停滞している」という焦りの中で焦っていた。しかし新海誠監督はそんな懸命に生きる人々に力強いメッセージとして

君たちは停滞しているように思ってしまうだろ?でもそうじゃないんだ!君たちは秒速5センチメートルで確かに前に進んでいる。くじけず自分を信じて懸命に生きていくんだ!その先に君の望んだ未来がきっとある!

と言っているのだと思う。いや~、いい話じゃないか。どうあがいても鬱々としたところがない。「秒速5センチメートル」は「頑張る人を応援する」なんとも清々しい作品である。

このように見てみれば、「秒速」も鬱々として見ずに住むものと思われる。

でも、映像を見ると、やっぱり貴樹はなにか引きずっているように見えるぞ?
実際のところ俺にもそう見えるよ。「One more time, One more chance」が全部悪いんだと思う。うん、きっとそうに違いない。

おまけ:「秒速」を「笑える映画」にする。

本当の第一話

この記事本編では「『秒速』を鬱々とした気持ちで見ない方法」を書いたが、ここからは「笑える映画」にするための方法を考えようと思う。流石に無茶があるので「おまけ」である。

さて、最初に大事なのは「映画の第一話はどれか」ということである。もちろん「桜花抄」が第一話だし、時系列的にも「桜花抄」に決まっているのだけれど、あの映画の構造を考えると、第三話「秒速5センチメートル」が「本当の第一話」となるのではないかと思う。

「秒速」はやはり「未来への不安と新たな一歩の物語」だと思うのだが、そういう意味でいちばん大事なのが第三話である。私が思うに、第一話と第二話は、第三話でフリーランスとして生きる道に乗ることが出来た貴樹が、ある春の日に「ふと思い出したあの日々」だったのではないだろうか。

「秒速5センチメートル」を貴樹が思い出している物語と考えると、第一話の「ドラマチックな悲恋」も個人的には笑えてくる、実際に起こったことはあんなにドラマチックなことではなくて、途中で電車が3時間も止まることもなかったし、結構早い時間に目的地にたどり着いていたのかもしれないのだ(「特別な夜」はあったかもしれないが)。

あの作品がなにやら「鬱々としている」理由は、あいつが思い出している話だから、必要以上に悲劇的になっているからとも考えられる。自分の過去は出来る限りドラマチックにしたいでしょ?第三話で彼女から何やら詩的なメールが来るけれども、実際にはもっとくだらないものだったかもしれないし、もっとひどいものだったかもしれない。

このような見方をした時にいよいよ笑えるのが第二話である。あれはどういう話だったことになるのか。

謎の存在「花苗の姉」

第二話を「思い出した話」と考えると、まず笑えるのが「花苗のモノローグ」である。貴樹が思い出している物語なのに花苗のモノローグがあるのはおかしい。つまりは「あいつ絶対俺のこと好きだったよな、きっとこんな事考えてたんじゃないかな~」と貴樹は思い出していることになる。それだけでも「アホな男の妄想」になっていて素晴らしいのだけれど、もっとも重要なのは「花苗の姉」の存在である。なぜ姉が登場するのだろうか。

映画を見ているとなんとなく自然に見えるのだけれど、私が勘ぐるに、貴樹が高校の頃に惚れていたのは花苗の姉である。つまり先生に惚れていたのである。だから自分の過去を思い出す時に、どうしてもその人が物語に登場しなくてはならない。

第二話の中盤、なかなかサーフィンで立つことが出来ない花苗を姉が見つめているシーンがある。ここで姉はすごく深刻な表情をしている。それは、なにか上手くいっていない妹を心配する姉の姿にも見えるのだけれど、もしかしたら違うかもしれない。

というのも、その直後に「いつものように貴樹を待ち伏せているのに貴樹に会えない花苗」が描かれ、貴樹がなにやら一人で携帯を見つめなら草原に座っているシーンがある。ものすごく穿った見方をすると、あの日貴樹は花苗の姉に愛の告白をしようとしていたのかもしれない。そういった内容のメールくらいは姉にしたのかもしれないし、直接話したのかもしれない。しかし花苗の姉としてはそんなことに応じられるわけがないのである。

きっと貴樹はそんな「失恋の痛手」を一人で癒やしていたのだろう。そんなところに自分に惚れているであろう妹が現れるという展開を「貴樹が思い出している」のだから「おいお前、何やってるんだ」といったところだろう。

この記事の本編も無理はあったかもしれないし、「おまけ」が輪をかけて無茶であることは分かる。でも、「思い出している物語」という見方は、そんなに変ではないとも思っている。

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