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「すずめの戸締まり」を見てきた感想ー三部作の終焉ー

「すずめの戸締まり」は2022年11月11日に公開された新海誠監督による劇場用アニメーション作品である。前作「天気の子」から3年ぶりの新作であった。

「雲のむこう、約束の場所」から新海作品のファンであるが、なにやら今回は「もしかしたら俺は新海作品に飽きているかもしれない」という一抹の不安があった。おそらくは女子高生が主人公であることが一番の原因だったとは思うが、せっかく新作を見に行って「新海誠は終わった」とかつぶやいてしまうクソ寒なおっさんになってしまうのが何より怖かった。

ただ結果的にはそんな事はなく「ああ、いい映画だったな」と映画館を出ることができた。

今回はそんな「すずめの戸締まり」を見てきた感想をまとめようと思う。皆さんはどう思っただろうか?

「すずめの戸締まり」の感想

何も聞かない優しさと、聞かずにはいられない親心

「すずめの戸締まり」は日本を舞台にしたロード・ムービーとして始まる。それは「地域振興映画」とういう体裁をとり、日本の様々な「地域」を我々に印象付けてくれる。いわゆる「聖地巡礼」をする根拠をこれでもかと与えてくれたし、きっといつか私も訪れるのだろう。

そしてそこで鈴芽は多くの人に支えられながら東京にたどり着く。

その人々は決して鈴芽の事情に深入りすることはなく、「なにかあるに決まっているが、そんなことよりもその状況を支えてあげよう」極めて理想的な行動をとってくれる。

これは結局、成長期、反抗期、あるいは思春期にある人にとっての「そうであってほしい親の姿」だろう。

「自分で決めたい」、「自分でやりたい」という強い自我を持ち始める若者にとって、なにをするにしても自分に干渉してくる親という存在は極めてウザったいものであるし「自分を信用してくれない存在」と成り果ててしまう。

ただ・・・親なんてそんなものである。

子供からすると、親の干渉、疑念、あるいは否定はなんとも不愉快なものであるが、親は生まれた時からず~っと自分を見続けてきたのだとうことを忘れてはならない。つまり、すぐになにかに飽きた自分を見てきたし、自分を大切にしない自分を見てきたし、親が親であるというその一点で親を頼っていた自分を見てきたのである。

親としても子供を尊重してやりたいとは思っているものの、心の何処かに「またか」という疑念も残るのである。さらに面倒なのは、「自分を頼ってほしい!」という欲求もある。経験からくる冷めた目線と親としての欲求が、子供の成長と対立してしまうということになり、有史以来すべての親子がこの問題と戦い続けてきた。

そして人類はその解決策をおそらく一つしか発見していない。つまり、「親子喧嘩」である。

一生に一度は親子喧嘩を。

「すずめの戸締まり」はその序盤からロード・ムービーなのだが、真のロード・ムービーは結局「東京」から始まる。

鈴芽の東京までの旅は単なるアクシデントであり、彼女の旅ではない。もちろん色んな意味で加速度はついたが、彼女が自分を見つめるためにはどうしても故郷である東北を目指さなくてはならない。それは彼女がず~っとペンディングにしていたものとの対峙であり、ある意味とてもつらい旅でもある。それでもその旅を後押ししたものは大切なものの喪失だった。

そこで終わっていればきっと「秒速5センチメートル」までの新海作品だが「星を追う子ども」以降、新海作品は「その先」を一生懸命に映画いてきた。鈴芽の旅も「その先」を目指すものだった。

さらにその旅は、鈴芽を我が子のように育て上げた叔母にとっても大切な旅となった。

サービスエリアでの彼女の鬼気迫る独白は、彼女の中にくすぶっていた「本音」だったかもしれないし、鈴芽がなんとなく感じてきたことでもあるし、映画を見ている我々が真っ先に考えたことだった。

鈴芽としても衝撃的な独白だったかもしれないが、ある意味での「答え合わせ」になったになった事によって、二人の関係はむしろ正常化した。

鈴芽はあの事件で本質的に大人になったのだろうし、叔母はようやく本当の親になることができたわけである。

ただこの事は、本当の親子じゃないという前提がどうしても必要なことではなく、どんな親子も真っ向勝負で喧嘩をすることによってなにか新しい地平にたどり着くものなのではないだろうか。

「すずめの戸締まり」に明確なメッセージがあるとすれば、それは「一生に一度は親子喧嘩を」になるのではなかろうか。

新海誠がおくる「この世界の秘密シリーズ」の終焉

「すずめの戸締まり」は、「君の名は。」、「天気の子」と並ぶ新海誠三部作として語られることになると思う。

その一つの理由は、この三作品が我々の知らない「世界の秘密」を物語の推進剤にしたファンタジー作品であることである。絶妙にSF的な要素を含んではいるが、根本的にはファンタジーであっていると思う。

そういう意味でこの三作品は私にとって「新海誠この世界の秘密三部作」である。

ではなぜこれが三部作であり四部作になりえないのか?もちろん語呂が良いということもあるのだが、決定的なのはやはり、東日本大震災だろう。

「すずめの戸締まり」は明確に東日本大震災の物語である。しかしそれは「君の名は。」と「天気の子」も間違いなくそういった物語であった。これまではなんとかそれを隠蔽しながら「災害」という形で物語を紡いできたことになる。

しかし今回は何一つ隠蔽することなく、真っ向勝負で東日本大震災を扱った。

「天気の子」の公開後に、新海監督が「エンディングに関しては賛否があるだろう」という発言をしていたと思うが、「すずめの戸締まり」のほうがよほど賛否がありそうなものである。

つまり、今回新海監督が直接的に東日本大震災を描いたということは、監督にとってはなにかしらの意味において「峠」を越えたという感覚があったということなのだろう。実際、映画館で配られた「新海誠本」の中で次のように語っている:

「君の名は。」のときは、夢を媒介にして触れていくみたいなことしかできなかったんです。でも、今なら直に手で触れることができるんじゃないか、直に触れるべきなんじゃないかという気持ちが強くなっていった。あるいは、これ以上、そこに触れるのが遅くなってはいけないという気持ちもどこかにありました。

「君の名は。」、「天気の子」、「すずめの戸締まり」は私にとっては「この世界の秘密三部作」だが、実際のところは–みんな気づいていたように–「東日本大震災三部作」であった。そして上の発言でわかるように、「すずめの戸締まり」は大きな「段落」になっている。

物語のラストで鈴芽と草太が要石を叩きつけるシーンはシリーズの終焉を宣言する「句点」だったのだろう。

このように考えると新海監督の次回作は「君の名は。」から始まる三部作とは全く異なるものになるだろう。しかもそれは「コロナ禍」もテーマにはならない。それはすでに「すずめの戸締まり」で描かれているから。

さて、新海監督の次回作はどんなものになるだろうか?

まあ気長に待ちましょう。俺たちにできることはそれだけですから。

一番好きな新海誠監督作品は?

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シフルはどうなんだい?
ひじょう~に難しいが、一番最初に見た「雲のむこう、約束の場所」かな。明日は違うことを言ってるかもしれないけど。

「すずめの戸締まり」についてのおまけ

「ルージュの伝言」

「すずめの戸締まり」の後半は東京から東北へ旅立った。そしてその旅を最初に彩ってくれたのは荒井由実(松任谷由実)の「ルージュの伝言」だった。

もう我々世代は「ルージュの伝言」を聞いてしまったら「魔女の宅急便」しか思い出せない。実際にレコードとしてリリースされたのは1975年なので、私よりも上の世代にとっては本来は別のイメージがあったのかもしれない。

噂によると、「ルージュの伝言」で描かれる「あの人」のモデルは矢沢永吉らしいが、真偽の程を私は知らない。

で、なぜあのタイミングで「ルージュの伝言」が流れたのだろう?それは劇中できちんと明言されているように「旅の始まり」と「猫」なのだが、それだけではないだろう。

「すずめの戸締まり」の前半戦の鈴芽の度は「何も聞かない理想的な人々」に支えられていた。それはなんとも理想的な存在なのだが、それは「魔女の宅急便」でも同じだった。

「魔女の宅急便」の場合は「魔女」という不可思議な存在が絶妙に受け入れられている世界であるが故に、おソノさんがキキを受け入れることが巧妙に「ありうること」にすり替わっていた。それでもなお多くの「理想的な存在」に彼女の日々が支えられていたことに変わりはない。この辺ことは以下の記事でまとめている:

「魔女の宅急便」でキキが出会った先輩魔女は、何故あんなに「嫌な奴」だったのか?「魔女の宅急便」について前回は「ジジがラストでも喋らない理由」について考えた。前回の記事ではキキが魔法のちからを失った理由についても考え...

新海作品でも「天気の子」はまさにこのフォーマットにそっており、「何も聞かない理想的な人」に主人公が支えられていた。「天気の子」に於ける根本的な言い訳は「その人達もなにか思い悩んでいるから」ということだったと思う。これについては以下の記事でまとめた:

「天気の子」と「魔女の宅急便」の共通点に見る2作品のメッセージ「天気の子は」は2019年に公開された新海誠監督に寄る劇場用アニメーションであり、「魔女の宅急便」は1989年に公開された宮崎駿監督によ...

「すずめの戸締まり」でも何かしら「理想的な人々」が出てきたが、今回その人々が理想的であった理由は「その人達もかつてそうだった。」ということになるかもしれない。

何れにせよ、本来ありえないような物語を支えるためには何かしらご都合主義的な存在が必要になる。あとはその「都合」をどのように設定するかだろう。

そして、そのように物語を紡ぐ以上、そして女性が主人公で猫まで出てきてしまう以上、「ルージュの伝言」は必須の曲だったのかもしれない。ある意味で「星を追う子ども」と同じ思想があったと言えるのだろう。

抑制的な「RADWINPS」

「君の名は。」以降、新海作品で決して無視してはならないのは「RADWINPS」、あるいは野田洋次郎の音楽だろう。

「君の名は。」、「天気の子」、「すずめの戸締まり」を比べた時に、最もその音楽との親和性というか化学反応が際立ったのは「君の名は。」だったと思う。みんなも「Sparkle」が流れたときは鳥肌立っただろう?

個人的には「天気の子」は音楽が多すぎた。どれも素晴らしい曲だったし曲そのものとしては好きなのだが、「映画」としては少々ゲップが出てしまうくらい音が多かった。

その真逆に位置しているのが「すずめの戸締まり」だろう。

相変わらず流れる曲は素晴らしかったが、その利用は極めて抑制的だった。それを物足りないと思う人もいるかもしれないが、個人的にはあれくらいが良いと思う。多分「君の名は。」がうまくいきすぎていたのであって、あんなことそうそうできるものではないのだろう。

これからも「新海誠+RADWINPS」のコンビが続いてくれることを望むが、おそらくこれ以降は「すずめの戸締まり」くらいのバランスになるのではないだろうか。

父親不在の物語-ラピュタの逆-

「すずめの戸締まり」を最も単純化すると「鈴芽の成長物語」である。そしてその成長過程で「実の母親にさよならをしつつ、育ての母親を母として取り戻す物語」であった。つまり、これは女性の物語である。

そして全ての男が気づいた通り、この作品には鈴芽の父が登場しない。それどころか初めからいなかったような扱いである。

ただ、我々はそのような作品をすでに知っている。つまり、「天空の城ラピュタ」である。

「天空の城ラピュタ」では主人公パズーの父については語られるが母について一切語られない。壁にかかった写真にその姿を僅かに確認できるのみである。

ではなぜそんなことになっているのか?

理由はおそらく二つ。一つはそもそも「父を取り戻す物語」であることと、母について描いている暇がないということ。

特に深刻に聞いてくるのは2つ目の理由だろう。映画館に聴衆を5時間拘束できるなら描けることは増えるだろうが、人の集中力はそんなに続かないし、そんな映画を流してくれる映画館もない。すべての映画は2時間前後で終わらなくてはならない。

となると、何を描くかよりは何を描かないかを選ぶことになるだろう。

「すずめの戸締まり」においても、設定としては父親のものがたりはあると思うがそれを描いていては2時間前後の物語として鈴芽の成長や「母親を取り戻す物語」は描けない。

今回だけは男や父が割りを食ったということだろう。でも、それでも良いじゃないか!俺たちには「天空の城ラピュタ」がある!

一番好きな新海誠監督作品は?

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。           
           
                   
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