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かぐや姫の物語」で「姫が犯した罪と罰」とは何だったのか?

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「かぐや姫の物語」は2013年に公開された高畑勲監督による劇場用アニメーション作品である。残念ながら高畑監督の遺作となってしまった本作品だが、きちんと映画館で見ることが出来て本当に良かった。

さて今回は、本作品のキャッチコピー「姫の犯した罪と罰」について考えようと思う。

なんともキャッチーなコピーで、視聴意欲をくすぐるのだが、「罪と罰」に関しては一応原作の「竹取物語」でも言及されており、地上に来たのは月世界で犯した罪の罰であることが語られている。ただ、罰についてはある程度の納得ができるのだが、罪についてはほとんど語られていない。

「かぐや姫の物語」は(少なくとも制作当初)「かぐや姫はどんな罪を犯し、何故地上に落とされたか」という疑問に答える作品として作られていた(記者会見などでプロデューサーの西村義明氏が記者会見などで語っている)。確かによく見ると疑問に答えているように見えるのだが、よく見ないと分からないとも思われるし、私自身も捉え損なっている部分が沢山あるように思われる。それでもなお今回、現状私が考える「罪と罰」について考えていこうと思う。

まずは原作「竹取物語」における「罪と罰」の描写を振り返ろう。


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竹取物語」における「かぐや姫の罪と罰」

まずは原作の「竹取物語」において、かぐや姫が地球に来た理由と「罪と罰」についてはどのように記述されているかを振り返ろうと思う。地球に来た理由としては、まずかぐや姫が次のように語っている。

おのが身は、この国の人にもあらず。月の都の人なり。それをなむ、昔の契ありけるによりなむ、この世界にはもう出来たりける。

訳:私はこの世界の住人ではありません。月の都の住人でございます。それが前世の因縁がありこの世界に参上したのです。

明確には語られていないが何やら「前世の因縁」によってこの世界に参上したようである。更に、物語の終盤で月の世界からやってきた天人が次のように語っている。

かぐや姫は、罪を作り給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。罪の限りはて塗れば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。

訳:かぐや姫は、罪を犯していらっしゃったので、下賤のみであるお前のもとに、しばらくおわしたのだ。罪の期限が終わったので、このように迎えに来たのに、翁は泣いて嘆く。

どうもかぐや姫は罪を犯したらしく、その罰として竹取の翁のような「下賤の身」のもとに送られた。しかしその罪が一体どのようなものだったのかは全く語られていない。

ただ、かぐや姫の証言を合わせると、それは「前世の因縁」が関係しているようではある。

さらに、かぐや姫が犯した罪のヒントになりそうな描写が存在している。

・・・・・・ふと天の羽衣うち着せ奉りつれば、翁を「いとほし、愛し」と思しつることも失せぬ。この衣着つる人は、物思ひなくなりにければ、車に乗りて、百人ばかり天人具して、昇りぬ。

訳:・・・・・・(天人が)かぐや姫にさっと天の羽衣を着せると、翁に対して「気の毒だ、愛おしい」と思っていたかぐや姫の思いもなくなってしまった。羽衣を着ることによって思い悩むことがなくなってしまったかぐや姫は、車に乗って百人ほどの天人を連れて月の世界に帰ってしまった。

天の羽衣を着たかぐや姫は「思い悩む」ということがなくなったようである。つまり、月の住人というのは「思い悩む」ことがない人々ということになる。

以上の「竹取物語」描かれている「罪と罰」をまとめると、

「思い悩む」という起伏が存在しない月世界の住人だったかぐや姫は、ある罪を犯し、その罰として「下賤の身」である翁のもとに落とされた。かぐや姫が犯した罪や地上に落とされた理由は、かぐや姫の「前世の因縁」が深く関係している。

ということになるだろう。まとめたところで何かが分かるわけではないし、そもそも分かるようには描写されていない。したがってこの辺のことは読み手の解釈に委ねられる訳だが、高畑勲監督はそれをどのように描いたのだろうか?ここからは「かぐや姫の物語」で描かれた「罪と罰」について考えていこう。

かぐや姫の物語」における「罪と罰」

かぐや姫に与えられた罰

「罪と罰」のうち、まずはわかりやすく描かれている「罰」の方から考えようと思う。

原作においては「下賤の者」のもとに落とされたことが罰という事になっているが、「かぐや姫の物語」においては「人の世に落とされたことそのもの」がその罰になっている。

我々が暮らす人の世そのものが罰になっているため、我々には何故それが罰になるのか分かりづらいのだが、月世界がかぐや姫に施した数々の「仕掛け」によって、少なくともかぐや姫にとっては「罰」になっていた。そしてその「仕掛け」によって最初に行動を狂わされたのが竹取の翁である。

かぐや姫(たけのこ)は、翁と媼のもとで満ち足りが日々を送っていたのに、翁は何故かただ一人突っ走ってかぐや姫に「良い生活」をさせようと奮闘する。映画を見ている我々は、かぐや姫の思いを完全に無視する翁の姿に少々いらいらしてしまうのだが、当時の状況を考えれば至極当然のことでもある。

ただ、翁がそのように突っ走った理由は、次々と竹の中から現れる金銀財宝や高貴な着物の数々であり、なによりもかぐや姫に対する「執着」である。

「竹取物語」においても金銀財宝が竹やぶから現れる描写はあるわけだが、「罰」として地上に落とされたという事実と何やら矛盾が生じていて一貫性がないように感じられる。しかし「かぐや姫の物語」では、この状況そのものが、「人の世」をかぐや姫にとっての生き地獄にするための最初の「仕掛け」となっている。

その後、かぐや姫は望まぬ形でどんどん高貴な生活に飲み込まれていくことになる。野山で暮らした日々に決して戻れないという絶望の中で、かぐや姫は「ここではないどこか」へ疾走する。

このシーンではやたらでかい月が極めて印象的に登場しているが、ようは「月は見ている」ということである。その後、走りきったかぐや姫は倒れてしまう(命を落とした?)。それほどまでに状況から逃れたかったかぐや姫だが、次の瞬間もとの状況にもどってしまう。

かぐや姫は地上で死ぬことが許されていないということである。

この辺で月の住人がかぐや姫に科した罰が「人の世で苦しむこと」であることが分かってくる。

その後かぐや姫は「竹取物語」と同様に、複数人の男共から求婚され、その人々に無理難題を押し付けることによってそれを交わしたのだが、そもそも何故そんなことになってしまったのか?

これも月がかぐや姫を罰するためにした「仕掛け」が原因になっているものと思われる。つまり、かぐや姫は男を狂わせる力を月から付与されているということになるだろう。見方によっては優れた力なのだが、重要なポイントは、かぐや姫はそんな力を望んでいないという点である。

ここまで来ると「かぐや姫の物語」は「竹取物語」の映画化というよりは、現代を生きる女性が食らっている苦しい状況そのものが主題となった「現代劇」となっていることが分かる。だれも「女」として生まれてくることを自ら望んでいないのだが、自分が望んでいないその性質によって男共からの望まぬ「好奇の目」にさらされているのである。しかも、そこからどれほど逃れようとしても、結局はそんな世の中で生きていくことを強要されてしまう(疾走したかぐや姫はもとに戻されてしまう)。

これは「アナと雪の女王」で描かれた主題とも重なるだろう。「アナ雪」では、エルザがその魔法の力を懸命に隠して生きてきた。「魔法」なのだから本来羨ましい話なのだが、「アナ雪」はどう見たってそうはなっていない。エルザは魔法の力なんて望んでいないのである。本来あのような力は「魔法」ではなく「呪い」とい呼ぶべきものであり、エルザは「自らが望んでもいないのに、自分が持ってしまった性質」という呪いと戦ったわけである。

かぐや姫も月から付与された「呪い」によって、まったく自らが望まない状況で苦しむことになっている。これこそがかぐや姫が科された罰ということになる。男を魅了する力を付与された一人の女性が、男社会に落とされてしまったら、それは地獄であると「かぐや姫の物語」は主張していることになる。

最終的にかぐや姫は天皇に言い寄られることで、月の世界に帰りたいと願ってしまい、罰から開放される。月側からすると「な?月のほうがいいだろ?」といったところなのかもしれないが、こんな罰を月側が与えなくてはならなかったかぐや姫の罪とは一体何だったのだろうか?

かぐや姫が犯した罪と前世の因縁

かぐや姫の犯した罪

かぐや姫が犯した罪を予測するために最も重要な事実は、「月に帰りたい」と思ったことが罰からの開放につながったということだろう。

逆に考えるならば、かぐや姫が月で犯した罪とは「地球の方が良い」と思ったということになるのではないだろうか。では何故その程度のことが罪となるのだろうか?

ここで原作の「竹取物語」に戻ると、天の羽衣を着たかぐや姫は「思い悩む」ということがなくなった。つまり、月の世界というのは思い悩むことがない、世界である。ある意味で羨ましい世界ではあるのだが、思い悩むことのない世界には喜びもない。楽しいということもない。結局月の世界は、いわゆる「悟り」を開いた状態の人々に溢れている世界ということになるのだろう。

彼らは楽器を演奏するかもしれないし、酒を飲むのかもしれない。しかし、それが楽しいとか、嬉しいとか言うのではなく、ただそこに楽器を演奏するという状態があり、酒を飲むという状況があるに過ぎない。

もちろん煩悩の塊である我々には、そんな清浄の世界を理解しきることなど不可能なのだが、「起伏がない」とか「喜びがない」などと言葉で説明することまではできる。

そのように考えると、かぐや姫の犯した罪とは結局は月の世界に「起伏」を持ち込んだことだろう。それは「喜び」を持ち込んだという事かもしれないし、「楽しさ」を持ち込んだということかもしれない。

そしてその原因となったのが「地球そのものが持つ豊かな複雑さ」だったに違いないのだ。ただ、1つポイントとなるのは、かぐや姫は「地球そのもの」を美しいと思ったかもしれないが、別に「人の世」を美しいと思ったわけではないということである。彼女が愛したのは、作中のわらべ唄にあるように

・・・鳥 虫 けもの 草 木 花 咲いて実って散ったとて 生まれて育って死んだとて 風が吹き雨が降り水車まわり せんぐりいのちがよみがえる・・・

という地球の有り様である。上のわらべ唄を鑑みると、地球とは「流転する世界」とも言えるかもしれない。ということは月の世界とは「流転しない世界」、「静止した世界」ということにもなるだろう。

以上だらだらと書いてきたことをまとめると、

かぐや姫が犯した罪とは、起伏のない月世界に「喜び」や「楽しさ」といった「起伏」を持ち込んだことであり、その源泉は地球上の生命体が織りなす流転する世界の有り様であった。起伏がなく、静止した月の世界の住人にとって、かぐや姫がもってしまった豊かな感情は、月世界の秩序を破壊するものであり、罪として罰するに値するものであった

といったところだろうか。まあ、この時点で少々の矛盾があり、そもそも「罰」というのは「起伏」そのものみたいなものなので、かぐや姫を罰するという判断を下した時点で月の世界は大して静止した世界とは言えないような気もする。さらに、上に書いたようなことが罪ならば、「月に帰りたい」と願った程度の事でゆるすようなものではなく、原則永久追放すべきだろう。

やはりまだ考えるべきことがたくさんあるように思われるが、現状で私が考えられるのはこの程度のことである。

続いては、そもそも何故かぐや姫は地球を美しいと思ってしまったのか。ということについて少々考えようと思う。月から地球が見えるのはかぐや姫だけではなかったのに、なぜ他の月の住人は、地球に興味をもたなかったのだろうか?

このことについて考えると、「かぐや姫の罪」の別の側面が見えてくる。話はどんどんしんどくなるけど。

かぐや姫の因縁-三保松原羽衣伝説

「竹取物語」においては、かぐや姫が地球に降り立った理由が「前世の因縁」と語られている(結局は「罰」だったのだからこの辺のニュアンスは掴みづらいけれども)。では「かぐや姫の物語」では、この辺のことはどのように語られていたかというと、物語の終盤、媼の前でわらべ唄の続き歌ったかぐや姫が

遠い昔 この地から帰ってきた人が この歌を口ずさむのを 月の都で聞いたのです

と語っている。ではその人物は一体誰なのかというと、これもきちんと描かれている。かぐや姫によると、その人は月世界の羽衣を身にまとうことで地上での記憶を失ってしまっていたが、わらべ唄を口ずさむたびにその人物は涙を流していたという。

実際にその人物も映像として描かれているが、何やら寂しげに地球を見つめるその人の腕は、存在しない赤子を抱いているようになっている。その人物は何を忘れたのかを忘れてしまっているが、それでもその手で抱いた「なにか」を心の底で覚えており、それ故に涙を流していることになる。では、この人物は一体誰なのか?

かぐや姫のセリフの前後の映像を見るに、この人物はいわゆる「羽衣伝説」に描かれている天女である。しかも、富士山と松が描かれているので、おそらくは静岡の「三保松原(みほのまつばら)」に伝わる羽衣伝説に描かれている天女であると思われる(羽衣伝説そのものは各地に残っており、内容も絶妙に異なる)。

三保の松原に伝わる羽衣伝説はだいたい以下の通りである:

三保の村の漁師である伯梁(白龍、はくりょう)は、ある日、海岸にある一本の松に美しい羽衣がかかっていることに気がつく。その美しい羽衣を手にとり持ち帰ろうとすると、どこからともなく美しい天女が現れて「その羽衣は天女の羽衣、それがないと天に帰れません。どうかお返しください」と頼んだ。それを聞いた伯梁は「それでは天女の舞を舞ってください、そうすればお返ししましょう」と答えたが、天女は「その羽衣がなくては天女の舞は踊れません、どうかお返しください」と更に懇願する。伯梁は羽衣を返したらそのまま帰ってしまうのではないかと疑いを掛けたが、「天の世界には嘘というものがございません。どうか信じてお返しください」という天女の言葉を信じ羽衣を返すと、天女は見事な舞を披露してくれた。そうこうしている内に、天女は空へと帰っていった。

他の地域にある羽衣伝説では、男と夫婦になり子供を作ったり、老夫婦の子供になりながらも途中で捨てられるなど、いろんなバージョンが存在する。

残念な注

この記事を書いた当時(2021年7月)は絵コンテの記述を読むことが出来ていなかったのですが、絵コンテの方にキチンと採用した羽衣伝説についての記述が有ることがわかりました(2023年10月に判明)。絵コンテによると

羽衣伝説にはいろいろあるが、天女がまいおりる。青豚めに羽衣を松にかける。漁師がそれをこっそり隠す。帰れなくなった天女は漁師と夫婦になり、子までもうける。が、ある日、押し入れに隠されていた羽衣を見つけ、夫の裏切りをしり、ついかっとなって羽衣をまとい、天に帰ってしまう-というのを採用。

となっていますので、以下の文章は少々無理が出てしまうのですが、それでも「かぐや姫の罪」の部分についてはいい線ついていると思われますので、「映像だけを見た考察」として楽しんでいただければと思います。

いづれにしても、「かぐや姫の物語」で「わらべ唄」を月世界で口ずさんでいた人物はかつて松原に降り立った天女であり、天女の羽衣を身に着けてしまったが故に地上の記憶を失い月の世界に帰っては来たが、失ってしまった子供のことを心の奥底で忘れられずにいるということになる。その天女の姿にかぐや姫はひどく心をうたれたのである。

ところがどっこい、ここに来てもやはり疑問が残ってしまう。つまり、かぐや姫が胸を打たれた天女の姿は他の月世界の住人も目にしているはずである。それにも関わらずなぜかかぐや姫だけがその姿に心を打たれ、地球に対する深い興味を抱いたことになる。

その疑問を解決するために、もう一度松原バージョンの羽衣伝説を振り返ってみる。松原バージョンでは、地上の男は天女の舞にひどく満足したことになっているが、「天女が舞い踊っただけで満足した伯梁おかしくないか?」とも思ってしまう。もちろんそれはそれは見事な舞だったに違いないのだが、この「舞」というのが何かをぼやかした表現だったと考えると僅かに合点が行くだろう。つまり、もっと「いいこと」があったに違いない。

そしてその「いいこと」の結果として、天女は地上での記憶を失いながらも、月世界に地上の血を持ち込んでしまったのではないだろうか?

そしてその血こそかぐや姫である。

つまり、月世界でかぐや姫が見た人物が忘れている赤子は、かぐや姫本人であり、もともと地上にその由来を持つかぐや姫は必然的に地上に想いをはせたのである。

しかしそうなるともさらなる問題が生じる(疑問のいたちごっこ状態!)。かぐや姫の物語本編で描かれた伯梁と思しき男は子供を連れており、空に帰る天女を2人で追いかけている。普通に考えればその子供こそ天女の子であり、天女が忘れてしまったのはその子ということになる。しかし、天女が忘れたのはかぐや姫のことであると私は考える。これからそれを説明するが、ほんとうにしんどい話になっていきます。

ほんで、1つ目の理由は、天女が舞い降りた場所が松原と思われるということである。そこに伝わる羽衣伝説では、地上に天女の子が残された描写がない。したがって、「かぐや姫の物語」の天女も地上に子供は残していないだろう。

そしてもう1つの理由だが、それを説明するために、みんな大好き捨丸兄ちゃんに登場して頂こう。

捨丸は物語の序盤、野山でかぐや姫と一緒の時間を過ごしており、当時は一方的な恋慕の思いを寄せていたようである。しかし物語の終盤、ふるさとの山に家族とともに戻った捨丸は、かぐや姫(たけのこ)と再会を果たし、かぐや姫からの熱い思いを受け取ることになる。

ここで捨丸は一瞬で家族を捨ててかぐや姫と逃げることを決断する。

この一件のせいで捨丸は「家族捨丸(かぞくすてまる)」などとネット上で揶揄されることになってしまうのだが、かぐや姫に魅了された貴族達のことを思えばこれも当然のことであろう。貴族と違ったのは、かぐや姫の方にも思いがあったということに過ぎない。

何れにせよ捨丸はかぐや姫を選択するのだが、松原の伯梁にも同じようなことが起こったのではないだろうか?

伯梁が羽衣を発見したときにはすでに家族がいたが、天女を見てしまった伯梁はその姿に魅了され、家族を忘れて突っ走った。もちろんかぐや姫と捨丸とは状況が全く異なり、伯梁は羽衣を人質にしたのである(ひでえ話だよ、まったく)。そして羽衣を取り戻した天女は逃げるように天に帰った。伯梁の子供描かれた理由は、おそらく一緒に散歩でもしていたときに天女を発見したのだろう(子供連れで何やってんだ伯梁)。

残念な注

先述の「残念な注」にありますように、漁師が連れていた子供も天女の子供であると考えなくてはなりません。ただ、映画だけを見るなら上のように考えることも出来ますし、それなりに面白い考察だったと思います、という言い訳はしておこうと思います。また、「捨丸との対比」という点を全部破棄しても、「かぐや姫」が天女の子供であるということは間違いないと思います。つまり、天女と漁師には二人の子供があったが、かぐや姫が地上で生まれる前に天女は月に帰ってしまったということです。

絵コンテに記述があるので、「捨丸との対比」は「間違い」ということになるのですが、個人的には漁師が連れていた子が天女の子供でないほうが話としては面白いと今でも思っています。もちろん、負け犬の遠吠えです。

このように考えると、かぐや姫が見た天女の涙の意味も違って見えてくる。

それは、かぐや姫の存在を忘れてしまった空白ヘの渇望であるとともに、地上で起こった悲劇に対する悲しみでもあった。天女の羽衣の力を持ってしても、心の傷は癒えなかったということになるだろう。

しかしかぐや姫は、再び悲劇の土地である地球への想いをつのらせてしまったのである。

そんなかぐや姫の姿を見た月世界の住人は、2つの憎しみを感じたのではないだろうか。それは、かつて地上で起きた悲劇に対する憎しみ、そしてその悲劇の犯人である地球人の血を引くかぐや姫に対する(不条理な)憎しみである。

そしてさらに、かぐや姫の姿を見て天女が地上で起きた悲劇を思い出してしまうかもしれない。

このように考えると、かぐや姫の犯した罪とは、生まれてしまったこと、ということになる。

やはり月世界はいうほど「清浄の世界」ではなく、なんとかして「清浄であること」を守ろうとしている世界なのかもしれない。そしてそのような世界にとって、「憎しみ」の根源となってしまうかぐや姫の存在は極めて邪魔である。

それ故にかぐや姫は地上に落とされ、かつて天女が食らった悲劇を追体験するような罰を与えられたのである。

それでもなお半分は月の血が混ざっているかぐや姫を、最後の最後に許した月世界の住人は、かぐや姫を再び仲間として受け入れたということになるだろう。

このように、「かぐや姫の物語」は単に「竹取物語」を映画しているのではなくて、相当にしんどいことを表現している映画となっている。「火垂るの墓」どうように、普通の気持ちでは見ていられない映画である。そして、少なくとも一度は見るべき映画である。


以上のことが、現状で「かぐや姫の物語」における「姫が犯した罪と罰」について私が考えたことの全てである。羽衣伝説の不条理さを深刻に捉えることで「かぐや姫の物語」をわざわざしんどい映画にしてしまったような気もしますが、それほどずれてもいないような気もしますし、松原が描かれたシーンに登場する子供が天女の子供ではないというのは少々無理があったかもしれない。ただ、羽衣伝説がどう考えても人間本位で、天女にとっては災いに過ぎなかったという事実は無視してはいけないだろう。

高畑監督は、「竹取物語」や「羽衣伝説」といった古い説話のなかで、実のところ一貫して無視されているなにかを「かぐや姫の物語」の中で描こうとしたのかもしれない。

ただ、どうしても納得できていないのが「清浄の世界」の住人が、なぜ「罰」を与えたのかという事実である。この点についてもう少しだけ考えて、「罪と罰」についてもう少しだけ考えたことを以下の記事にまとめている:

もしかしたら、かぐや姫は罪も犯していなければ罰も受けていないかもしれない。皆さんはどう考えるだろうか?

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。


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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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POSTED COMMENT

  1. より:

    もう少しみじかくしてもらえるともっと嬉しいです。

    • Sifr(シフル) より:

      冗長であることは自覚はあったのですが、やはり長すぎですよね。反省します。

  2. M より:

    凄く興味深い内容でこういった見方があったのかあと新発見できました!
    ただ、不浄=汚れているといった意味合いで、清浄の反対語のようなものだったと思うので、途中月の世界が不浄???となりました!

    • Sifr(シフル) より:

      ご指摘ありがとうございます。完全に記述を間違えていました。正しくは清浄です。

  3. 匿名 より:

    考察、楽しく読みました。ありがとう。

    • Sifr(シフル) より:

      コメントありがとうございます。楽しんでいただけて私としても嬉しく思います。

  4. からし より:

    考察、楽しく読みました。ありがとう。

    • Sifr(シフル) より:

      コメントありがとうございます。楽しんでいただけて私としても嬉しく思います。

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