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湯婆婆が銭婆の契約印を盗もうとしたのは何故なのか?【分裂した宮崎駿としての姉妹】

前回は、「湯婆婆が名前を奪う理由」について考えたが、今回は湯婆婆と銭婆の魔法とその契約について考えようと思う

というのも、「千と千尋の神隠し」の謎の一つは「何故湯婆婆はハクに銭婆の契約印を盗ませたか」ということである。この謎を解くためには、まずは、湯婆婆と銭婆の契約について感がなくてはならない。

湯婆婆については劇中で魔法の力の代償としての契約の内容が述べられている。つまりは「働きたいものには仕事をやる」という契約である。では、銭婆の契約とは一体何だったのだろうか?

銭婆の契約

作品だけを根拠にするならば、銭婆の契約に関するヒントは主に2つしかない。

「働きたいものには仕事をやる」という湯婆婆の誓約と、「自分と湯婆婆は二人で一人前」という銭婆の証言である。

この2つのヒントをもとに考えると、銭婆の誓約は「働きたいものには仕事をやる」の対になるものになるだろう。対と言っても難しいのだが、今の所「与えられた仕事はこなす」ということになると個人的には思っている(要は「労働者と経営者」ということだろう)。

しかし、湯婆婆が「仕事を与える」という契約に縛られているのと同様に、銭婆も「与えられた仕事をこなす」という契約に縛られている。

ということは、おそらく銭婆は沼の底から動けずにいるのではないだろうか?

実のところ湯婆婆も同じ状況にある。夜な夜な何処かへ湯婆婆はでかけているものの、様々な問題が発生する油屋を離れることはできないし、「腐れがみ事件」でも分かるように「大問題」が起きたら自分が判断をくださなくてはならない。湯婆婆は油屋の権力者であると同時に、油屋に囚われている存在であもある

ということはついである銭婆も、あの場所に囚われていることになる実際、ハクを追ってきたのも銭婆本人ではなくその式神であった。やはり銭婆はあの場所から動くことができないのである。

さて、ここからが本題である。何故湯婆婆は銭婆の契約印を奪おうとしたのだろうか?

湯婆婆が銭婆の契約印を盗もうとした理由

ここからは湯婆婆が銭婆の契約印を盗もうとした理由を考えたいが、それには現状2つの考え方がある。私としてはそのいづれもが正しいことだと思っている。

考え方その1【銭婆を働かせたい湯婆婆】

湯婆婆が盗もうとしたのが契約印だったとしたら、その契約印を盗んでしまえば自由に契約をさせることができる。結局の所、湯婆婆は銭場を油屋で働かせたかったのではないだろうか?

「千と千尋の神隠し」の作品中最大の矛盾は「働きたいものには仕事をやる」という契約をしているはずの湯婆婆が「働かせてください!」という千尋の言葉をなんとか遮ろうとしている湯婆婆の姿である。

早い話が何でもかんでも雇ってはいられないという経営者としての「排他性」があの瞬間に出ている。それでもなお「契約印」を盗んだのは、なんとかして優秀な労働者としての銭婆を、無理矢理にでも契約させたかったからではないだろうか?

湯婆婆は多くの従業員を抱える経営者であるが、その従業員が自分の思い通りになることなど殆ど無いだろう。そんな時にいつも頭の片隅に思い浮かんだのが「すごく仕事のできるお姉ちゃん」だったのではないだろうか。だからこそ、その契約印を盗んで、自分と契約させようとしたのだろう。

ここで想像の翼を羽ばたかせて、「じゃあ、銭婆に沼の底での仕事を与えたのは誰か?」を考えてみると、それが実のところ湯婆婆だったという考えもあるのではないかと思ってしまう。つい最近かずっと昔か、喧嘩でもした際に「ここで一生糸でも紡いでろ!」と湯婆婆が言ってしまい、それ以降銭婆は沼の底に居続けているのである。ハクに契約印を盗ませたのも湯婆婆なりの罪滅ぼしをしようとしていたのかもしれないが、長年に渡って関係がこじれているので「ごめんなさい」が言えなかったに違いない。もちろん以上のことは妄想に過ぎないが、説明的でない映画の醍醐味はこういう妄想に違いないのだ。

さて、続いてはもう少し違う視点で、湯婆婆の行動を検証しようと思う。

考え方その2【分裂した宮崎駿としての湯婆婆と銭婆】

宮崎作品を多く見ていると、「千と千尋の神隠し」の湯婆婆がどうしても「経営者としての宮崎駿」あるいは「映画監督としてアニメーターに指示を与える宮崎駿」に見えてくる。

そのように考えると、湯婆婆が夜な夜な何処に行っているのかも明らかである。もちろん「宮崎駿の自宅」である。物語上の湯婆婆の居住地は油屋に違いないのだが、メタ的視点に立つとどう考えてもあれは帰宅シーンである。

そして、湯婆婆が「経営者や監督としての宮崎駿」なら、銭婆は「アニメーターとしての宮崎駿」ということになるだろう。

銭婆が「戻ってこられない沼の底」にるのは「もうアニメーターとしての日々は二度と帰ってこない」ということの暗喩に違いない。別にその日々に戻りたいわけではないかもしれないが、一人のアニメーターであった日々の自由さに思いを馳せる日々もあっただろう。もちろん、構造上は、演出意図を実現するのがアニメーターのはずなので本来は不自由である。しかし「それはおかしいだろ!」とか「こうすべきだ!」という不満を述べられるのは監督でない立場にいるときの自由であり、すでに監督となってしまった宮崎駿にはその自由はない。全部自分の責任であり。誰にも文句は言えない。

そんな宮崎駿監督が一番アニメーターとして雇いたいのは一体誰なのだろうか?もちろん自分自身であろう。

ここで断っておくが、私が言いたいのは、ジブリのアニメーターのレベルが低いなどという恥知らずなことではない。ジブリのアニメーターに限らず、すべてのアニメーターは我々消費者にとっては全員魔法使いレベルの人々である。敬意こそあれ、侮蔑などあるはずもない。

しかし、宮崎監督が実現したいのは宮崎監督の世界であり、その文脈では、アニメーターの個性や独創性は完全に犠牲にされてしまう。

宮崎監督のドキュメンタリーで何回も見ることのできる場面があるのだが、アニメーターが懸命に書いた原画が完全否定されて直されてしまうのである(消されたり、捨てられたり)。傍から見ていても、「だった最初から自分で書けよ」と言いたいくらいにすべての努力が消え去っていく。

それでも自分で直しているから良いのかもしれないが、宮崎駿が求めているのは宮崎駿であるということは明確である。

何やら話がずれてしまったようなきもするが、この記事の意図は「何故湯婆婆は銭婆の契約印を盗んだか」である。この文脈におけるその理由は

本当は自分自身を雇いたい宮崎駿のわがままの現れ

ということになるだろう。

こういう内面の真実は決して表にしてはいけないことであるし、この文章も私の独断と偏見によるものである。こういったことを美しいファンタジーに包んで提供しているところが、宮崎作品の素晴らしさかもしれない。