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千と千尋の神隠し】ハクの正体と銀河鉄道の夜、そして神秘の手

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「千と千尋の神隠し」は2001年に公開された宮崎駿監督による劇場用長編アニメーションである。

今回は「千と千尋の神隠し」の主要人物「ハク」に関してまことしやかに囁かれている「噂」について考えていこうと思う。

その噂とは「ハクは千尋の死んだ兄」というものである。なんとも突飛な話と思われるかもしれないないのだが、これがそれほど馬鹿げた説とも言えないところが面白い。何よりも、ハクが千尋のなくなった兄と考えると「千と千尋の神隠し」という物語の納得度が上がるように思われる。

ただ、それだけが可能性の全てではないので、それ以外の可能性についても探っていこうと思う。

もちろん、宮崎監督を始め、制作に関わった人の直接的な発言があるわけではないので、あくまで「噂」という立場を超えないようにするのが寛容である。


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千と千尋の神隠し」のハクの正体は何か?

ハクの可能性1:千尋の死んだ兄

根拠1:千尋を救う少年の腕

最初に上げる根拠が最も重要なものになる。それは物語の終盤、千尋が銭婆のもとから龍となったハクの背中に乗って湯屋に帰る道中で、かつて自分が川に落ちたことを回想するシーンに一瞬登場する「子供の手」である。

その手は川に落ちた千尋に伸ばされているのだが、そのシーン以外に「子供」が描かれているシーンはない。

ちなみに、私は初めてこの作品を見てからず~~っとあの手は千尋の父親のものだと思っていた(父が来ていた半袖っぽいものを着ていたし)。今見てもそのように見えなくもないのだが、絵コンテを確認するとはっきりと「子供の手」と記述されている。

で、大事なことはその手は誰の手なのかということだが、その手が千尋の兄とするのが「ハク千尋の兄説」のスタートラインである。

また、どう考えても千尋に兄がいる描写は存在していないので、その兄は川で非業の死を遂げたということになる。

あとはその死の原因が問題になるのだが・・・「千尋を助けようとしたから」がその解答となるだろう。あるいは、「千尋が川に落としてしまった靴をとってあげようとしたから」という可能性もある。大事なことは、彼の死に何かしらの形で千尋が関わっていることであり、それはあの日の川で発生したということである。

少々突飛にも感じるが、そのように考えることによって、解決可能になってしまう問題が少なくとも1存在してしまう。

根拠2:ぶっきらぼうな千尋の母

「千と千尋の神隠し」の本編開始直後から我々の心の中に何やら「もやもや」したものを植え付けたのが、千尋の母の千尋に対する対応である。

なんかこう、つっけどんというか、邪険にしているというか、あの二人の間には見えない不可思議な「壁」があるように見えた。

それも、長男の死因が千尋にある(あるいは千尋だと思うことができる)と考えればある程度納得できるだろう。

お母さんだって大人なので、心のそこから千尋を責めているわけではない。そもそも責めるべきは自分と夫である。自分たちが目を離していたから、息子がその身を挺して妹を救う羽目になったのだ。

しかし、人情というものは「矛盾」をはらむもので、それを分かっているがどうしても娘を「普通に」扱うことができなくなっているということになる。

このように「ハクは死んだ千尋の兄」と考えるとどうにも気になった母親の不可思議な態度に説明がつくことになる。

根拠3:銀河鉄道の夜

千尋と母との関係以外にも、もう一つ合点の行くところがある。

それは、宮崎監督が「千と千尋の神隠し」を作る上で宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をある程度意識していたという事実である。

物語の終盤、海の上を走る鉄道の姿はなんとも幻想的で我々の記憶に強く残っているシーンだと思うが、あれはまさに「銀河鉄道の夜」のオマージュといっても良いシーンである。

実際、「風の帰る場所(PR)」の中で、宮崎監督は以下のように語っている:

「・・・だから、もっと描きたかったのは、電車の旅の部分でしたね。ついつい寝てしまってね、見知らぬ街がよぎっていくとかね。それで、今何番目の駅だったか忘れてしまって、 大急ぎで車掌室に駆け込んでみたら車掌がいなくて、闇の中に遠ざかっていく街並の光だけがワーッと渦巻いてるっていうね、これは『 銀河鉄道の夜』だぞっていう( 笑)」

このように、少なくともあの電車のシーンでは「銀河鉄道の夜」という作品が強く意識されていたことが分かる。

しかし、「銀河鉄道の夜」と言えばやはりカンパネルラとジョバンニの対話の物語であり、カンパネルラは誰かを助けるために命を落としているという前提が最も重要だろう。

となれば、「銀河鉄道の夜」という作品が強く意識されている「千と千尋の神隠し」においても「すでに死んでいる誰か」が登場していてもおかしくはないのである。それよりも、登場している方が自然とも言えるかもしれない。

もちろん、その候補者はハクである。

そして、母親の不可思議な千尋に対する態度を鑑みると、ハクは死んだ千尋の兄であり、「千と千尋の神隠し」はその存在すら知ることのなかった兄と千尋との対話の物語であり、サヨナラの物語であったということになる。

なんとも切ない話だが、色々と合点がいくという点で「ハクは死んだ千尋の兄説」もそんなに馬鹿にはできないだろう。

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ハクの可能性2:幼少期の千尋の友人

「可能性」という話をするならば、別にハクは千尋の兄である必要はないし、「銀河鉄道の夜」を前提にするならば、友人のほうがしっくり来るかもしれない。

つまり、ハクは「千尋を助けようとして死んでしまった友人」という考え方である。

そうすると、よりカンパネルラとジョバンニの関係に近づくし、劇中の二人を「兄弟愛」という視点ではなく単純な「愛」という視点で見ることができるので、釜爺の「愛だよ愛」というセリフもよりグッと来るものになるだろう。

母親の態度が少々気になるかもしれないが、それはむしろ説明がつくだろう。

自分の娘が他人の子供の死の原因になってしまったとなると、その直後の自体の収拾に関してはとんでもなく神経をすり減らしたことだろう。夫と共に延々と「申し訳ございませんでした」を言い続けたかもしれない。

自分の娘が死なずにいてくれた喜びよりも、その後に食らった現実がその後の娘に対する態度を決定づけてしまったということになるだろう。

ここまで「母の態度」だけを問題にしてきたが、父親もそれを知りながら見てみぬふりをしているのである。母親だけでなく、父の中にも何やら鬱屈したものがある証拠であり、その根拠としては「千尋の兄」よりも「千尋の友人」と考えたほうがより強固になるかもしれない。

ハクの可能性3:やっぱりもともと川の神

神秘の手

さて、ここまでは「ハクは千尋の死んだ兄」という噂を肯定する形で話を進めてきたが、「根拠」として提示したものはすべて「状況証拠」であり決定的なものではない。こんな証拠で有罪にされたらこの世を恨むレベルのものである。

最後にもう一度、ハクはやはりもともと川の神だったのだという視点に立ってみよう。それが最も自然な見方なのだから。

その根拠になるのは「ハクは千尋の死んだ兄」の根拠の1つとして提示した絵コンテである:

これまでは「子供の手」という表記を強く前面に押し出して物事を考えてきたが、ここで考えたいのはその下に書いてある「川におちたことのある人ならしっている」という言葉である。

残念ながら私は川に落ちたことがないので知らないのだが、妙な表記であることには変わりないだろう。

あれが、川に落ちた人に向けられる手ならば、それは傍から見ている人も知りうる手である。でも、どうやらあの手は「落ちた人」しか知らない手である。

それはつまり、あの手は実在する人間の手ではなく、「川に落ちるという緊急事態に陥ったのにも関わらず、なぜか溺れ死ぬことがなかったという奇跡を説明する神秘の手」ではないだろうか。

考えて見れば、子供ころの我々はそんな「神秘の手」によってたくさん助けられて着たのではないだろうか。

子供は基本的に危ないことでした楽しむことができない生物なので、ともすれば命を落としかねない何かを「遊び」として楽しむ。しかし結果として、命を落としかねない事故に見舞われたり、事故寸前のヒヤッとするなにかの連続で彩られている。

それでもなお我々が死なずにいたのは、千尋があの日の川で出会った「神秘の手」があったからとしか説明ができないのではないだろうか(もちろん普通はそれを「運」と呼ぶ)。

そのように考えると、「千と千尋の神隠し」は、「我々を救ってくれた何か」にありがとうを言う物語ということができるかもしれない。

千尋はあの不可思議な世界でハクをはじめ、リン、釜爺、カオナシ、銭婆など多くの人の助けによってなんとか生き抜くことができた。そして何より、湯婆婆が仕事を与えてくれた事がすべての始まりである。釜爺のもとを離れるときに千尋がリンから「お礼を言いなさい」と言われたことも「ありがとうの物語」を象徴するものだったかもしれない。

あの世界にいた不可思議な存在すべてが、誰かにとっての「神秘の手」の象徴だったのだろう。我々はきっと、油屋で癒やされていた神様の誰かのお陰で生き抜いたのである。

母の態度の説明

さて、ハクに関して「やっぱりもともと川の神」と考えると、母親の千尋に対する態度に説明が使いないと思うかもしれないが、その説明は極めて簡単。

つまり、そんな母と娘も普通に存在しているということに過ぎない。

千尋が10歳ということも色々効いているのだろう。

小学校高学年に入り、どう考えても子供なのだが「自我」を明確に持ち出しているし、娘を転校させているという後ろめたさもある。初めて親になった者として、傍から見て納得のいく距離感を実現できていなかったとしても、それほど攻められるべきものではないだろう。

あの父親も、自分の娘との距離をどのように取れば良いかわからなくなってきていることは想像に難くない。

そのように考えると、千尋の母や父の態度は、それほど不可思議なものではない。

さらに言うなら、そういう親の苦悩がなんとなく娘の千尋に伝わっているからこそ、千尋は「神隠し」という形ここではないどこかへと旅立ったとも考えられる。

何れにせよ、別に「ハクは千尋の死んだ兄」という前提を持ち出さなくても、母親の態度や父親の態度は十分説明がつくのである。


さて、今回は「ハクは千尋の死んだ兄」という「千と千尋の神隠し」に関する噂、あるいは都市伝説を肯定しつつ否定する形で話を進めて来た。

「ハクが千尋の死んだ兄」という説は極めて魅力的で面白いのだが、個人的には最後に書いた「やっぱりハクは川の神」という考え方がしっくりきている。

私もいい年になるまで生き続けることができた。それはきっと、私にも千尋にとってのハクがいたからに違いない。それは「銀河鉄道の夜」におけるカンパネルラなのだろう。私もそろそろ「ありがとう」に思いを馳せなくてはならない時期にきているような気がする。

皆さんはどのように考えるだろうか。

ハクの正体は・・・
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シフルは兄や友人ではないと思っているわけだよね?

そうなるんだけど、兄説の説得力の凄まじさはすごいよな。点と点が見事につながる感じがあって飲み込まれそうになるよ。

ただ、やはり個人的に気になるのは「川におちたことのあるひとはしっている」という記述だね。あの記述をもとにすると、兄や友人が「川の神」になった(あるいはバトンタッチした)のではなくて、もともとず~っと「ニギハヤミコハクヌシ」だったと考えたほうが良いように思う。

おまけ:ハクのその後に関する希望的観測

この記事では「ハクの正体」ということに焦点を当てて話してきたが、彼の「その後」も少々気になるだろう。

もちろんそれに関しては想像するしかないのだが、できる限り良い未来を想像してみたい。

その想像の根拠となるのは以下の2点:

  1. ハクは名前を取り戻しても帰る場所がない。
  2. 帰る場所のない「いい男」を我々は一人知っている。

「できる限りいい未来」と言いつつ、最初に考えなければならないのはハクの絶望的な情況である。つまり、彼は自分の名前を取り戻しても帰る場所はないということである。「コハクガワ」はすでに存在していないので、ハクは名前を取り戻したところでどうにもならない。

逆に考えると、自分という存在が埋め立てられ「お前はいらない!」と言われたハクが、新天地としてたどり着いたのが「油屋」という見方もできる。

そして我々はそいういう苦境に立たされた人物を一人しっている。つまり、「もののけ姫」のアシタカである。

アシタカも自分の故郷から「お前はいらない」と言われ、西へ西へと宛のない旅に出ることを余儀なくされ、最終的に「タタラバ」という新天地を発見した。

「もののけ姫」のラストは分かりにくいところもあるが、結局のところアシタカは「タタラバ」で暮らし、森に生きるサンのもとに「通婚」をするということになっている。

何れにせよ、アシタカにとって「タタラバ」は新天地であり、エボシ御前の後釜になれるかもしれない立場にいる。

となると、「帰る場所がない」、「『油屋』という新天地を見つけた」という共通点のあるハクもきっと「油屋」であの後もうまいことやっていったのではないだろうか。私はそう信じたい。

皆さんはどう思うだろうか。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。


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Sifr(シフル)
北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。
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