スタジオジブリ

「千と千尋の神隠し」で湯婆婆が名前を奪うのは何故なのか?

前回は「千と千尋の神隠し」のラストで、何故千尋は豚の中に親がいないということが分かったのかについて長々と書いてみた。

千と千尋の神隠しのラスト、千尋はなぜ豚の中に親がいないとわかったのか---苦団子の謎を添えて---千と千尋の神隠し 「千と千尋の神隠し」は2001年に公開された宮崎駿監督による劇場用長編アニメーションである。公開当時は中学生くらいだ...

今回は「湯婆婆は何故名前を奪うのか?」ということについて考えていこうと思う。あれは一体どういうことなのだろうか?

組織の一員になるということ–あだ名の功罪–

湯婆婆は名前を奪ってはいない

湯婆婆が名前を奪う理由を考えなくてはならないのだが、そもそもあれは名前を奪っているのだろうか?

なんか怖そうな魔法使いが文字として書かれた千尋の名前を浮き上がらせて、「千」という文字だけを残すので、あたかも名前が奪われたように見えるのだが、あのシーンは普通に考えると名前を奪ったのではなくて、「千」というあだ名を与えているシーンとなると思われる。

では何故「奪う」という方向でしか我々はものを考えられないのかといいうと、CMや劇場予告で「名前を奪われて不思議の街で働くことになった10才の少女」というフレーズを見ているからである。

つまり、映画外の情報によって我々の認識が操作されていることになる。

繰り返しになるが、「今日からお前は千だ」といっているのだから、湯婆婆がしたことは「千」という名前、つまり「あだ名」を与えたと考えるべきだと思う。

歴史的に考えると「上の人間が下の人間をあだ名で呼ぶ」という現象は「親愛の情」の現れである。そのような観点に立つと、あのシーンは「なんやかんやいって千尋を組織の一員として受け入れたいいシーン」ということになるだろう。

あだ名の功罪

さて、あのシーンが「千尋を組織の一員として受け入れたいいシーン」だったとしても、あだ名を与えることがどうかということとは別問題である。

スタジオジブリで「借りぐらしのアリエッティ」、「思い出のマーニー」の監督をし、スタジオボノックで「メアリと魔女の花」、「小さな英雄」の監督であった米林 宏昌さんに宮崎駿がつけたあだ名は「まろ(麻呂?)」である。

確かに映像でみる米林監督を見ると「まろ」で良いような気がするし、そのあだ名に関してなんやかんや考える人でもないように見えるし、意外と「まろ」を気に入る人のようにも見える(見えるだけだけど)。

しかしどうだろうか、「まろ」というあだ名はどう考えても敬いのあだ名ではない。

スタジオジブリという組織における絶対権力者である宮崎駿だからつけることが許されるのである。

あだ名というものは、その人の意志に関わらずその人の立ち位置を決めてしまう。

「まろ」もそうなのだが、もっと極端な例として、「お前は犬っぽいから『ポチ』だ!」と言われた人がいたとしよう。もちろん同僚を含め、その人はものすごく「周りからは」愛されるひとになるだろう。しかし、本人が「ポチ」などという非人間的なあだ名に納得しているかは分からない。

ここで矛盾が生じるのだが、結果的に、あだ名を付けるということは、名前を奪うということであり、もしかしたらその人の人間性までも、そのあだ名で規定してしまう可能性があるわけである。

で、結局の所、何故湯婆婆が千尋の名前を奪う、あるいは千尋にあだ名をつけるシーンがあるのだろうか?

僅かな反省とアニメーターへのメッセージ

あのシーンの存在理由は結局の所「宮崎駿自身がやっていることだから」ということになるかもしれない。

私はスタジオジブリの内情なんてこれっぽっちも知らないが、宮崎駿にあだ名を付けられて、それを拒否できる状況であるとは思えない。そして、そういう状況に宮崎監督が無自覚とも思えない。

だが、宮崎監督ならそんなときに「嫌ならジブリをやめて他でやればいいじゃないか!むしろそのように生きるべきだ!」くらいに考えるかもしれない。

アニメーターたるものその腕っぷしで生きていけ!

ということになるのだろう。

ただ、自省の念がないわけでもないのかもしれない。

映画の序盤で、なんとか湯婆婆から仕事をもらった千尋に対してハクが「湯婆婆は名前を奪って相手を支配するんだ」という事を伝える。

あのセリフは「俺だってそう思われていることは分かってるよ」という僅かな反省を表しているようにも見える。

このように考えると「千というあだ名を付けられながらも千尋という自らの名前を決して忘れることなく懸命に生き続け、最終的に湯婆婆の呪縛から解き放たれた千尋の姿」は宮崎駿監督からのアニメーターへのメッセージだったのかもしれない。つまり、

ジブリのアニメーターたちよ、確かに俺は勝手にあだ名をつけるし、絶対権力者として好き勝手やっている。それに不満を持つのも分かるが、どんな名前で呼ばれようとも、自分自身の中にある大切なものを失わずに、いつの日か宮崎駿という呪縛から解き放たれて、自らの名前を取り戻し飛び立ってゆけ!

ということだろう。

アニメーション業界のことも、ジブリのことも、宮崎監督のこともなんにも知らない身分で勝手な事を書いてきたが、そこまでずれた話でもないように思われる。

まあ多くの人間を率いる立場にいる人だから色んなことを考えるんだろうね。
その上に宮崎監督本人が最強クラスのアニメーターなもんだから状況が厄介になるよな。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。