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【崖の上のポニョ】グランマンマーレの真実と宗介に託した未来ー宮崎駿男の悲哀シリーズ③ー

「崖の上のポニョ」は2008年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。公開当時のことを思い出すと、妙に「子供向け」という雰囲気が漂っており、すでに大学生になっていた私にとってはあまり魅力的には感じなかった。

それでもなお「宮崎駿の最新作」ということで少々のこっ恥ずかしさを感じながら見に行ったことを覚えている。ただ、その時「面白い」と思ったのか「つまらない」と思ったのか、自分がどういう感想を持ったかについては全く覚えていない。

そんな微妙な思い出しかない「崖の上のポニョ」だが、今回は「紅の豚」、「ハウルの動く城」に続く「宮崎駿男の悲哀シリーズ」の3回目であり、話の中心はグランマンマーレである。

この作品にどんな「悲哀」が描かれているのだろうか。

グランマンマーレの真実と男の悲哀、そして・・・

アンコウという不可思議な存在

グランマンマーレの真実

「崖の上のポニョ」という作品中、グランマンマーレはどんな存在も寄せ付けない最強の存在だろう。

ポニョの母親にして「海そのもの」であるグランマンマーレは、人間の常識など全く通用しない世界の存在であると共に、我々とは根本的に「時間感覚」が異なる存在となっている。

本編の終盤世界は大洪水に見舞われるが、あの程度の世界の変化など「海そのもの」であるグランマンマーレにとっては大した変化ではないのだろう。

そんなグランマンマーレだが、実は「正体」が存在している。グランマンマーレの真実の姿は「アンコウ」である。このことは「続・風の帰る場所」に書かれている。以下引用:

宮崎「でも異種婚礼っていうのは日本には数々あるからね。あのお母さんだって本当は巨大なアンコウなんだとかね。そういうことは、スタッフの中で話してたんですよ。でも差し渡し1キロのアンコウが出てきても画面の中にどう入れていいかわかんないから(笑)、ちゃんと人間の姿を取ることもできて、その代わり大きさは自由自在っていう。要するに孫悟空の世界ですね。孫悟空の中に、天界にいた金魚が3日間ほど地上に逃げて、化けものになって暴れるっていう話があるんですよ。それが地上では3年間だったとか。最後は観音様だったかに連れていかれちゃうんですけど(笑)。そういう話ですよ、要するに」

ただ「だからといって何だ?」というのが自然な疑問であるが、その疑問を解決するためには、アンコウのオスがどのような運命をたどるのかを知る必要がある。

チョウチンアンコウのオスの命運

さて、アンコウといえば我々男、いや「オス」が思い出さなくてはならないのはオスとメスの関係、いやメスとオスの関係である。例えばチョウチンアンコウ。

チョウチンアンコウのメスは体調が40センチ程度になるものの、なんとオスはその10分の1程度しかない。はっきり言ってオスはカスである。

さらに彼らは悲しい運命をたどることになる。

チョウチンアンコウのオスは、メスとの交尾に際し・・・メスに吸収されてしまう。さらに基本的にこのようなアンコウは「一妻多夫」である。オスは「統計上の数字」にすぎない。

私がこの事実を初めて知ったのはおそらく幼少期に見た「世界まる見えテレビ特捜部」である。その回では一部のイカの後尾の悲しさも放送されていたような気もするが、いずれにせよ子供心にすら突き刺さる事実であった。

年を重ねるごとに何やら思いを馳せたくなる事実だが、少々冷静になってみるとある疑問がわかないだろうか?何故チョウチンアンコウは拒絶反応を起こさないのかと。

例えばこれが人体なら、オスがメスに融合しようとしたところで拒絶反応を起こし、合体は夢のまた夢である。それもそのはずで、我々の人体には免疫システムというものが存在している。そしてそれがある以上、我々の身体は女性にとっては「外敵」として認識されるので融合することは決してない(よかった!)。

ではチョウチンアンコウはどうなっているかというと・・・「免疫システムがないので拒絶反応を起こさない」ということになっている。

この辺のことは「オゾロジー」というサイトの「アンコウはオスとメスの融合を行うために、免疫能力を捨てていたと判明!」に書かれている。

「なるほど!うまく出来てる!」と一瞬思うのだが、よく考えてみよう「免疫システム」なんて大事なものを捨てるくらいなら、免疫システムを維持しつつ、オスに「人権」を与えてくれても良かったのではないかと。

何れにせよ、我々はチョウチンアンコウを含める一部のアンコウのオスたちに何かを思うわけである。

ここで「崖の上のポニョ」に戻ろう。

グランマンマーレがチョウチンアンコウなら、彼の夫の1人であるフジモトは完全にグランマンマーレに取り込まれていることになる。これこそまさに男の悲哀そのものである。結局惚れた女に捕獲され、精神的に融合(融合というよりは吸収)されてしまうのが男というものだということだろう。

「紅の豚」、「ハウルの動く城」と2つの作品で異なる視点で描かれてきたことに通底する側面である。

そしてそれは2人の娘であるポニョに見初められた宗介の命運のようにも思われるのだが、果たしてそうだろうか?

宗介に託した未来

「崖の上のポニョ」という作品を見終わったときに思うことの一つは「あんな子供の宗介が『ポニョ』という命運を背負わされて可愛そう」だったかもしれない。

確かに「グランマンマーレがチョウチンアンコウである」という事実を知らなければそうなるのだが、その事実を前提にすると見え方は少々変わってくる。

物語の終盤、グランマンマーレと宗介の母親の「密談」の後、ポニョは人間になっている。

そして人間になった以上、男を融合することなど出来ない存在になったということにもなるわけである。

したがって宗介にはまだ無限の未来が待っている。別にポニョに取り込まれているわけではないのだ。

これはつまり「宗介!お前ならまだ飛べる!自由に飛べるんだ!」という宮崎監督のメッセージあるいは思いだろう。結局は「紅の豚」に戻ったということかもしれないが、「俺たちは自由だ!」という物語と「君たちは自由なんだ!」という物語では少々意味合いは異なる。

別の言い方をするならば、まだ宗介のような子供である「オス」に向けたエールなのだろう。

俺たちは捕獲されそうになるし、結局捕獲されてしまうけど、チョウチンアンコウではない!」と言っている訳である。

ただ、これも「ハウルの動く城」と同様に「捕獲された男の惚気(のろけ)」である。捕獲されていないような人にとっては「アンコウでもいいから捕獲してくれ!」という思いだろう。

何れにせよ「紅の豚」、「ハウルの動く城」、「崖の上のポニョ」を「宮崎駿男の悲哀シリーズ」として一連の物語として見ることはある程度面白いことではないだろうか。

少なくとも私は、そう思っているのです。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。