スタジオジブリ

「海がきこえる」のあらすじとその面白さ【自分に嘘をつく物語】

海がきこえる

「海がきこえる」は1993年5月5日に日本テレビ系列で90分の作品として放送されたアニメーション作品である。スタジオジブリは「魔女の宅急便」からアニメーターを正社員化しているが、正社員となった「若手集団」によって本作品は制作されている。「若手」といっても、監督は望月智充さん、作画監督は近藤勝也さんであり、現代的に見れば大御所である。

鈴木敏夫さんも語っているが、「若手集団」起用の理由については「スタジオジブリの将来計画」が関係していた。早い話が、宮崎駿や高畑勲の支配下にないすぐれた作品を制作できる状況を作らなくてはならなかったということである。そこで試しにやってみたということだったのだろう。

その結果そして生まれた「海がきこえる」という作品を私はとても好きなのだが、どうも宮崎駿にとってはそうではなかったようだ。「海がきこえる」のBlu-rayの特典映像に、当時の制作スタッフの座談会が収録されているのだが、それによると、「『海がきこえる』は若者は『かくある』ということしか描かれていない、作品というものは『かくあるべき』というところまで描かなくてはならない」というものだったようだ。

そりゃそうかも知れないが、それでもなお私にとってこの作品はとても好きな「ジブリ作品」の一つである。今回はこの作品のどういうところが好きか話そうと思うが、その前に、あらすじについてふりかろうと思う(完全なネタバレです)。

「海がきこえる」のあらすじ

主人公は高知の中高一貫校を卒業し、現在は東京大学に通っている杜崎拓(もりさきたく)。彼は同窓会に参加するためにふるさとの高知に向かうが、その途中、高校時代の日々が脳裏によみがえる。

彼には松野豊(まつのゆたか)という親友がいた。彼らが中学生だったころ「学力の低迷」を理由に修学旅行の中止が決定されてしまう。もちろん生徒の反発があったため、学校側は希望者に「説明会」を開くと全校集会で発表するが、希望者の募り方は「挙手」であった。主人公杜崎は勇気を持って手を上げたが、もうひとりだけ手を上げた男がいた。その男こそ松野豊かだった。

たった2人のために「説明会」など開くはずもなく、会場となる教室の黒板には説明会の中止、と意見を書くよう記されているだけだった。結果的には学校側に無視された形にはなったが、たった2人で過ごしたその時間は、杜崎にとってとても特別な時間であり、その日以降、2人は親友となった。

そんな2人が高校2年の時に、小さな事件が起こった。武藤里伽子(むとうりかこ)という女子生徒が転校してきたのだ。

学級委員だった松野は里伽子が学校になれるまで色々と世話をする事となったが、その中で松野は里伽子に「惚れて」しまった。舞い上がった松野は親友の杜崎に「武藤の家に行ってきた」程度のことも興奮気味に電話してくるほどだった。その状況に杜崎は少々不満であった。親友が女に乗り上げているのが気に食わなかったのだ。

里伽子の転校は両親の離婚に起因しており、里伽子は母親の故郷に一緒に付いてくる形となっていた。ただ、里伽子自身は母親の決断に不満を持っており、東京にいる父親に会いに行く計画を着々立てていた。主人公の杜崎はなんとその計画に巻き込まれてしまい、「里伽子の東京旅行」に付き合う羽目になってしまう。その旅を通じて杜崎は「東京」という場所に対する思いを決定的するとともに、松野に対して後ろ暗い経験をしてしまった。

そんな東京旅行が終わり高知に踊ると、まるで何もなかったかのような日々が続いた。ところが文化祭の当日に、再び事件が起こる。武藤は「文化祭に協力的でなかった」という理由で校舎裏に呼び出しをくらい、クラスお女子に囲まれてしまう。

それでも里伽子はその負けん気でクラスの連中を蹴散らしてしまう。その状況を隠れてみていた杜崎は、何な気なしに「おまえすごいな~」と声をかけるのだが「あなた最低!」と殴られてしまう。その後うまいこと現れた松野にこのことを話すと、今度は松野に「おまえ最低じゃ!」ともう一発殴られてしまう。

その後杜崎は唯一無二の親友だった松野と疎遠になってしまう。

このような思い出をたどりながら高知につくと、松野が迎えに来てくれていた。杜崎と松野は近くの桟橋で当時のことを語り合った。そこで杜崎は「お前を殴ったのは、お前が武藤のことを好きだったと分かったからだ」と告げられる。松野の手前、その思いをひた隠しにしていた杜崎だったが、あの瞬間に武藤への思いがバレてしまっていた。その後2人で同窓会に参加するが、そこには武藤の姿がなかった。しかし、最近武藤とあった女性から「私の好きな人は、お風呂で寝ちゃう人」と武藤が語っていたことを聞かされる。「お風呂で寝ちゃう人」とはまさに杜崎のことであった。杜崎は武藤との東京旅行で、自分のホテルの部屋に武藤が転がり込んできた折、ベッドを武藤に譲り、自分は浴槽で寝ていたのだ。結局高知で武藤に合うことはなかったが、東京に戻った杜崎は駅のホームで武藤に再開する。

そこで杜崎は、自らの武藤への思いを再確認する。

というのが「海がきこえる」のあらすじであると思う。さてこの作品のいったい何が面白いのだろうか?

「海がきこえる」の面白さ

ここからは「海かきこえる」という作品の面白さについて書こうと思うのだが、この作品は主人公の「杜崎拓」、その親友「松野豊」、そして「武藤里伽子」という3人の恋模様が基本的なプロットとなっている。ただ、その恋心が明確に描かれているのは松野だけである。彼に関しては単純に一目惚れであるが、「海がきこえる」という作品の最初のおもしろポイントは「杜崎はいつ武藤を好きなり、武藤はいつ杜崎を好きになったか」である。まずは武藤里伽子について考えよう。

武藤はいつ杜崎に惚れたのか?

武藤里伽子がいつ杜崎の惚れたのかは非常に難しいところなのだが、いつ惚れていることに気がついたかいえばそれば明確で、文化祭事件のときである。自分がクラスメイトに囲まれている状況を隠れて見ているだけで何もしなかった杜崎に対して「最低!」と言ってビンタしたあの瞬間に、武藤里伽子は「あ、自分は杜崎が好きなんだ」と気づいたのだと思う。杜崎を殴った直後の武藤の表情がそれを伝えている。

このシーンは、杜崎だから殴った訳で、杜崎でなかったらただ無視すればよいだけだった。殴るということは、何かしらの不満があったことの表明である。その不満は結局の所、自分の苦しい状況を傍観されたことに対する不満であり、「なんで何もしてくれなかったの?」という思いである。こういった不満は、なんとも思っていない相手には発生しない。どうでもよくない相手が、自分の苦しい状況を見ているだけで何もしなかったから、武藤は「最低!」とわざわざ杜崎をビンタしたのである。

では惚れた瞬間はいつなのだろう?

これは結構難しいのだが、やはり「東京旅行」のときであろうとは思う。その中でも、里伽子の元カレとの三者会談のときではなかろうか?里伽子の元カレが、里伽子の母親に対して「子供のこと考えたら酷いよね」という話をする。杜崎はその発言を受けて「親の気持ちもわからずに、お前らはくだらん!」と席を外してしまう。この後杜崎の前に現れた武藤は、憑き物が取れたような、ある意味ではそっけないような状態になっていた。あの時に武藤の中で杜崎という存在が「他の人とは違うもの」となったに違いない。

杜崎の発言は、母親の発言がもととなっていた。杜崎が「親の都合で状況が変わってしまうなんて可愛そう」という軽口を叩いたところ「母親なら絶対子供を連れてくるもんだ!親の気持ちを少しは考えろ!」とお叱りを受けてしまう。しかしこの「お叱り」があったおかげで、杜崎は武藤を振り向かせることができたわけだ。杜崎としては母親に頭があがらないだろう。

続いては杜崎について。

杜崎はいつ武藤に惚れたのか?

杜崎は武藤とは異なりだいぶ分かりやすくなっている。物語の序盤で体育の授業が描かれるが、そこで武藤はテニス部所属の生徒に圧勝してしまう。それを見ている目線は、武藤に釘付けになっている。

上の画像を見れば分かるが、杜崎だけ他の連中と全く違う描かれ方をしている。彼だけは「見ているもの」が違ったのである(全員武藤を見ていたのだけれど、杜崎にとっては自分の認識を変えるなにかがあった)。体躯の授業終わりに松野に会った杜崎は、松野に「頼まれてもいないのに」体育の授業中の武藤の話をべらべらと話す。つまり、「自分が武藤のことをなんともおもっていない」ということを懸命に表現している訳である。

早い話が、初めて会った時にすでに好きになっていて、松野の思いを先に聞いてしまったので、なんとか友情を優先しようとしたが、結局杜崎も武藤に惚れてしまっていたということである。

そして、このような杜崎のあり方が、「海がきこえる」という作品の根幹であろうと思う。

涼宮ハルヒの憂鬱との共通点【自分嘘をつく物語】

結局のところ、「海がきこえる」という作品はどういう作品だったかといえば「生まれてはじめて自分の内面に嘘を付く物語」ということだと思う。もちろん嘘をついたのは杜崎である。

杜崎は親友である松野の恋心を一方的に暴露されながらも、初めて武藤に会った時に惚れてしまっていたのである。でも、友情を優先しようとする杜崎はなんとかその思いを隠そうとする。松野が武藤に家に「ただ訪れただけ」の連絡を杜崎が受けるシーンも、モノローグとしては「武藤に夢中な松野に不満」という事になっているが、実のところは「松野の武藤に対する注目がなくなってほしい」と思っているのである。

「海がきこえる」という作品の特徴は「主人公のモノローグがナレーションになっている」ということである。そしてそのモノローグは「全部ウソ」になっている。

青春とは何か?という問に関する答えはないのだが、概ね2つのあり方がある音思う、それは「自分の内面に初めて正直になる」あり方と「自分の内面に初めて嘘をつく」ある方である。

「海がきこえる」という作品で描かれたのは後者の青春だったのだろうと思う。杜崎は「武藤に惚れている」とい自分の内面を懸命に隠している。それは主に松野に対して隠しているのだけれど、実はナレーションを通じて我々視聴者にも嘘をついている。

さあ、我々は同じような話を知っているじゃないか!「涼宮ハルヒの憂鬱」である。「涼宮ハルヒの憂鬱」の主人公が誰かは非常に難しいが、私にとっては「キョン」である。あいつも作品中「モノローグ兼ナレーション」という役割を演じていた。そしてのモノローグ、ナレーションは常に「ハルヒに対して否定的」だったのだ。

でもそれは真っ赤なウソだった。早い話がキョンはファーストインプレッションでハルヒに惚れていたのだが、それを隠しに隠しきった。それが劇場版の「涼宮ハルヒの消失」で暴露されることとなる。

「海がきこえる」とい作品も「涼宮ハルヒの憂鬱」と同様に「自らの内面に嘘をつく話」である。これは多くの人々の記憶の中にある「青春」ではないだろうか?いい年になれば「素直になる」ことがそれほどに重要で、そのほうが早いということが分かるのだが、青春とはそれでもなお、面倒なことそしてしまう瞬間なのだろう。懸命に嘘を付くも杜崎に思いを馳せると「海がきこえる」は面白い作品になるのではなかろうか。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。

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