雑記

結局「論理的思考」ってなに?

「論理的思考」という言葉だけが存在している

私の好きな映画に「容疑者Xの献身」という作品がある。内容はともかくとして、映画の冒頭部でやたらと「論理的」とか「論理的思考」という言葉が用いられている。繰り返し使われるとその言葉について考えてしまうのだが、私はいまだかつてこの「論理的思考」という言葉の意味を理解したことがない。「論理的に考えろ」とか「論理的な思考を鍛える」という表現だけが存在しており、結局それが具体的にどういうことなのか説明されたことがない。ただ、他人ばかりを攻めるわけにも行かない。私自身も「論理的」という意味を考えてみたのだが、実際言葉にならなかった。

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「論理的ではない」ということ

言葉の意味を考える場合、「~である」ことの意味が分からなくなったら「~ではない」ことの具体例を考えてみるのがよいと思う。例えば、

論理的でない人
論理的でない人
このままじゃ日本は滅ぶんだよ!
尋常な人
尋常な人
なぜ滅ぶんだい?
論理的でない人
論理的でない人
いや、だって、ほらさ、その~、とにかく滅ぶんだよ!

頭で考えた例なので流石にひどいが、上の例で「論理的でない人」が「論理的でない」ように見える理由は「根拠がない」ことであろう。では、「論理的である」とは「主張の根拠を示す」ことなのか。やはり違う気がする。例えば、ある宅配弁当屋の従業員の会話:

良い後輩
良い後輩
良い先輩さん!今日はどれくらい発注がはいりますかね!
良い先輩
良い先輩
今日は金曜日で雨が降っているだろ?
良い後輩
良い後輩
そうですね。
良い先輩
良い先輩
こういう日はいつもの7掛けくらいが丁度いいんだ!
良い後輩
良い後輩
へえ~、そうなんですね!

さて、一見普通の会話であるし、頼れる先輩とすなおな後輩の心温まる会話の用に見える。ところがほんの少し変えただけで状況は一変する:

良い後輩
良い後輩
良い先輩さん!今日はどれくらい発注がはいりますかね!
良い先輩
良い先輩
今日は金曜日で雨が降っているだろ?
良い後輩
良い後輩
そうですね。
良い先輩
良い先輩
こういう日はいつもの7掛けくらいが丁度いいんだ!
良い後輩
良い後輩
へえ~、なんでですかね?
良い先輩
良い先輩
なんでって、いつもうそうだからだよ。
良い後輩
良い後輩
そうじゃなくて、なんか理由があるのかな~って
良い先輩
良い先輩
良いんだよそういうのは。とにかく7掛け、いいな。

我ながらひどい会話と思うが、こうしてみてみると、頼れる先輩は「論理的でない人」に見えなくもない。先輩には確かな経験の蓄積があり、その経験が「根拠」にはなっているが、本当のメカニズムを説明することができていない。。

言語化できない

前節で「論理的でない」2つの例を見てきた。1つ目の例で「論理的でない」ように見える理由を「根拠がない」といってしまったが、あのような発言をする人は根拠がないのではなくて「根拠を言葉にできていない」のではないかと思う。更に2つ目の例についても、メカニズムについて本当に何の予測も立たないのではなく、やはり言葉になっていないだけではないかと思わなくもない。薄弱な根拠を述べるより、潔く経験論に徹したということだ。では、結局の所「論理的」とはどういうことか?

論理的≒言語化?

来年の今日には別のことを考えているような気もするのだが、今の所私が思うに「論理的である」とは「自分の思考を言語化できる状態にある」ということではないかと思う。一般的に使われる「論理的」という言葉には「順序立てる」とか「論拠を示す」ということが含意されているような気がするが、どの順序がその場て適正化はその場(目の前にいる人)によるし、何が「論拠」として意味を成すかも目の前にいる人によるだろう。つまり、「論理的」という言葉の定義にそれらを含ませるのはあまりにもいい加減であるように思われる。やはり現状の見解としては、論理的≒言語化であると思う。来年はどう考えているだろうか?

論理的でいるための地獄のトレーニング

さて、論理的≒言語化であるということを認めても、自分が論理的でいるためには相当しんどい日々が続くように思われる。つまり、自分が論理的でいるためには、自分が思ったことや感じたことに対して「なぜだろう?」という疑問を持ち続け、それに答え続けなくてはならない。また、他者からの「なぜですか?」に答え続けなくては行けない。だた、それらの疑問に答え続けてもいつかは限界が来て、「そりゃ神様がそのようにお創りになったのさ!」というところにたどり着くだろうが、そこまで頑張ったなら自分を褒めて上げましょう。いずれにせよ、疑問に答えようとする姿勢が「論理的な自分」を維持してくれるものと思う。

非論理的である自由

ここまで色々「論理的」という言葉について考えてきたが、私は別に「論理的」であることがよいと思っているわけではない。「論理的である」ことを教養される場所に立たされた時の自己防衛のために、まずは「論理的」ということばについて考えてみた。我々人類には非論理的である自由がある。「そう思うのはそう思うからだ!」で良いのである。全ての事象を言語化可能などと考えるのは、極めて傲慢なことだと思う。

終わりに

今回は「論理的」ということについて考えてきたが、この「論理的」という言葉と同じくらい意味がわからないのが「数学的思考」というやつだ。「数学的」までならわかるのだが「数学的思考」となるといまいちわからないし、バキッとはまる説明を聞いたことがない。今度は「数学的思考」について考えてみようと思う。

なんか小難しく話したが、とりあえずご機嫌に生きようぜ!

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