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「魔女の宅急便」のラスト、ジジはなぜ喋れないままなのか?【その理由とジジの正体】

「魔女の宅急便」は1989年に公開された宮崎駿監督のアニメーション映画である。内容もさることながら、松任谷由実による挿入歌「ルージュの伝言」、EDテーマの「やさしさに包まれたなら」が強烈な印象を与えており、この作品通じて曲が好きになった人も多かったのではないだろうか。

さて今回は、「魔女の宅急便」を見たもの全てが思ったであろう「ラストのジジはなぜ喋れないままなのか」という問題を考えていこうと思う。そのためには「結局ジジってどういう存在だったのか」ということが重要なので、そのへんのことから考えて見たいと思うのが、それに関して3つの疑問を提示してみようと思う。

「魔女の宅急便」の全体的なあらすじはこちら

ジジに関する3つの疑問

ジジはキキと二人のときしか話さない

この作品は題名にあるように、「魔法使いの物語」なので、ほうきで空を飛べたりネコと話せたりしても我々は全く気にならない。実はあの世界の人々もそうで、少なくとも「魔女がほうきで空を飛ぶこと」に関しては、珍しいこととは思っているようだが、驚愕すべきこととは思っていないように見える。したがって「ネコと会話すること」も彼等にとってはあまり驚愕すべきことではないのかと言うと、それがわからないのである。というのも、キキとジジが会話するシーンはいくらでもあるのだが、それを見ている状況がない。実は実家を出発する夜、「僕もそのほうが良いと思うよ」と母親のほうきをすすめるジジにキキが「うらぎりもの!」というシーンがあり、それは周りの人も見ている。しかし新しい街の人々は、一度たりともキキとジジが会話している姿を見ていない。それどころか、街の人々はジジのことを気にもとめない。「かわいいネコだね」くらいのことがあってしかるべきであろう(唯一おソノさんの夫だけはジジのことを気にしている)。はて、何故こんなことになっているのだろう?どうもジジという存在は巧妙に仕組まれた存在のような気がする。そのジジのある種の異常さを物語イベントが、「ぬいぐるみのふりをするジジ」である。

ネコのぬいぐるみを演じきれてしまうジジ

新しい街についたキキは、その日のうちに「おソノさん」というパン屋の女将さんと出会い、なんやかんやとそのパン屋で住み込みで手伝いをしながら宅配業を開始する(なんという奇跡!)。そして「憧れのお姉さん」から、甥っ子へのプレゼントとして、ネコのぬいぐるみの宅配をキキは受注する。その宅配の途中で、キキはぬいぐるみを紛失してしまい、苦肉の策としてジジにぬいぐるみのふりをさせて、その間にぬいぐるみを探す作戦をとる。信じがたいことだが、見事に作戦は成功し、ジジは子供に弄ばれながらも見事にぬいぐるみを演じきった。

さて皆さん。こんなこと無理に決まっていると思いませんか?

いくらなんでも生身のネコがぬいぐるみの真似事をできるわけがないのである。でも、出来たのだ。何故だろうか?ジジが初めてネコのぬいぐるみを見た時に「僕がいる」と小さな声でつぶやくのだが、これもどうも意味ありげである。

ジジが喋れなくなる前に起こったこと

ジジが喋れなくなる前に起こった事件らしいことは2つ存在している。その1つは多くの人の心に突き刺さった「ニシンのパイ事件」である。

そしてもう1つは「トンボの友達いけ好かない事件」である。「ニシンのパイ事件」のその夜、本当はトンボとの約束があったのだが、その衝撃故に寝込んでしまい、トンボとの約束をすっぽかしてしまう。おソノさんが機転を利かせてキキは再びトンボに会うことができるのだが、二人は「プロペラ付きの自転車」で飛行船を見に行く。その道中でスリルを共有した二人はようやく打ち解けて仲良くなるのだが、そこに現れたトンボの友人がなんともいけ好かない。ボロボロなのだが一応車にのってやってきたトンボの友人はなんとも「イケてる奴ら」である。なんというか「田舎者にとっての近寄りがたい都会」というか「自分ならざる者」というか、とにかくキキにとって(俺達にとって)あのイケてるやつらはどうもいけ好かない。そしてキキは「そう思ってしまった自分」に苦しむことになる。

2つの事件の後、ジジは突如喋れなくなるし、キキに対する興味がなくなってしまったようにも見える。なんとなくこうなってしまうことを我々は受け入れてしまうのだけれど、なぜこんなことになったのだろうか?なぜ2つの事件の後にジジは喋れなくなったのだろう?

ジジが喋れなくなった理由とラストの意味

ジジが喋れなくなった理由【ジジの正体】

ここに至るまでにジジに関する3つの疑問を提示したが、これら全てに答えるジジのとらえからの1つは「ジジはキキにとってのぬいぐるみである」ということだろう。「ぬいぐるみに話しかける小さな女の子」を想像してみると良いと思う。ぬいぐるみに話しかけるというのは結局の所「独り言」なのだけれど、それでもなおそれは重要な対話で、自分の中にある喜びを共有し、不満を代弁し、だめな自分を見つけ出す作業でもある。ぬいぐるみと会話をしながら、自分を見つめているのである。でもそれは「自己解決可能な問題」の範囲で自分を見つめることにしかならない。ぬいぐるみは「自分の内面の代弁者」に過ぎないのだ。したがって、「そこにいる他者」が本質的に関わる問題に関してぬいぐるみに話しかけても何も返してはくれない。自分の中に「解」が存在しないのだから。

こう考えると、「ぬいぐるみを演じきるジジ」やネコのぬいぐるみをみて「僕がいる」とつぶやいたジジのシーンは「ジジはキキにとってのぬいぐるみですよ」ということをこちらに訴えかけて来ているように見える。キキがジジと話せなくなったあとに、森で出会ったウルスラがキキを訪ねてくるが、そこでジジを発見したウルスラも「ぬいぐるみにそっくり」というセリフを吐く。やはりジジはぬいぐるみなのである

「ニシンのパイ事件」や「トンボの友達いけ好かない事件」を食らったキキは、生まれてはじめて本当に他者が関わる問題に直面する。つまり「自己解決出来ない問題」に直面するのである。ジジに対して「私がニシンのパイを作って届けたことは正しいことだったよね」とか「なんでトンボの友達をみてこんな気持になっちゃったんだろうね」と聞いたところで答えは返ってこない。その答えは新たに自分で見つけ出さなくてはならないものであり、自らの内面の代弁者であるぬいぐるみにはもはやどうしようもないのである。

早い話が、ジジは最初から人の言葉など喋ってはおらず、キキの内面の反射がキキ自身に聞こえていたに過ぎない。

そして、ジジが喋らなくなるのはキキの内面の成長を表しているのであり、本来喜ばしいことである。このように考えると、ラストの意味も見えてくる。

ラストの意味【ジジの開放】

小さい頃にラストでジジが「にゃ~」といったときには随分と切なかった記憶があるが、このように「ジジはキキにとってのぬいぐるみ」と考えると、ジジが言葉を発しないのは当然のことであり、それ以上に大変素晴らしいことである。キキは「自己解決出来ない問題」に直面するが、それでもなお魔法の力を取り戻し、新たな一歩を踏み出す。おそらくトンボの救出劇は「キキにとっての生まれてはじめての自力」だったに違いない。家をでるときは母親のほうきをもらっちゃったし、新しい街に来たらおソノさんという菩薩のような人に出会ってしまった。キキはそういった「保護される立場」から脱却し独り立ちしたわけである。そんなキキはラストでジジを見た時に、自分がもう戻れない一線を踏み越えたことをしり「もうジジはいらない」ということに気がついたのだろう。その上で、それまで自分を支えてくれたともに「ありがとう」という感謝の念をもち、「ぬいぐるみからネコにもどれたジジ」をみて「よかったね」と思ったに違いない。それまで随分と自分を支えてくれたわけだからね(ジジが恋人を見つけるのも、ジジが「ぬいぐるみ」としての役割を終えて「ネコ」に帰っていくということを意味しているのだろう)。

つまり、あのラストは「ぬいぐるみと決別できた女の子の成長と、自分を支えてくれたぬいぐるみへの感謝、そしてぬいぐるみとしての役割を終えたジジの開放」描いているのである。

小さい頃は何やら切なく感じた「ジジが結局喋らない問題」だが、結構清々しい、良いラストだったのではないかと、今では思う。

やっぱり魔女宅といえば「ニシンのパイ事件」だね。宅配業者が来たら満面の笑みで荷物を受け取ろう!
そうだな。

おまけ:映画「ミッドナイト・ラン」

さて、今回は「魔女の宅急便におけるジジ」を考えてきたが、「キキとジジ」と同じ関係性を持った「ふたり」を描いた作品がある。それがロバート・デ・ニーロ主演の「ミッドナイト・ラン」である。「ミッドナイト・ラン」はジャックとデュークという「ふたり」の男がニューヨークからロサンゼルスまで旅するロードムービーなのだが、このジャックとデュークの関係性がなんとおもキキとジジとの関係に似ている。デニーロ演じるジャックは内面に色んな問題を抱えているのだけれど、デュークはそんなジャックの中に存在している「正義感」とか「正しく有りたい気持ち」の現れとなっている。キキとジジと同じように、ジャックとデュークも他人がいる時には基本的には話さない。まだ「ミッドナイト・ラン」を見たことのない人も、このような視点でみると、作品の楽しみ方が増えるのではないかと思う。

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この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。