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「天気の子」と「魔女の宅急便」の共通点に見る2作品のメッセージ

「天気の子は」は2019年に公開された新海誠監督に寄る劇場用アニメーションであり、「魔女の宅急便」は1989年に公開された宮崎駿監督による劇場用アニメーション作品である。

今回はこの2作品の共通点を探っていこうという話なのだが、こんなことをしようと言うには理由が存在している。

それは新海誠監督が「天気の子」と「魔女の宅急便」に関して発言したインタビューがあったことを思い出したということなのだが・・・その記事を全く発見できない。私はたしかに読んだ気がするのだが、どうしても発見できない。

記事を書いてから探せばいいと高を括っいたために記事そのものは出来上がってしまったのだが、きっかけとなったインタビューはそもそも存在していたかどうかも怪しくなってしまった。

私の記憶の中にある新海監督の証言内容としては「天気の子」の制作にあたって「魔女宅」が「心の中にあった」とかそういったニュアンスのものだったので、その証言が存在していたらこの記事の価値も高まると思ったのだが、こうなってはしょうがない。

そもそもこのブログは自分が勝手に考えたことをつらつらと書いているのだから、今回も開き直って公開することにする。でも・・・気になるな~。

「天気の子」のあらすじはこちら

「魔女の宅急便」のあらすじはこちら

「天気の子」と「魔女の宅急便」の共通点

「魔女の宅急便」の基本構造

まずは「魔女の宅急便」だが、この作品がどのような流れで進んだかというと、

  1. キキがしきたりに従って箒一本で旅立つ。
  2. なにやらいけ好かない先輩魔女にかまされる。
  3. 美しい街を発見するが、どうも溶け込めない。
  4. そんなかパン屋のおソノさんに出会う。
  5. なんとかパン屋を間借りして仕事を始める。
  6. うまくいかないこともありながら、ウルスラ、トンボなど色んな人と出会いながら人間的な成長を遂げていく。

「魔女の宅急便」という物語を推進する上で最も重要だったのは、もちろんパン屋のおソノさんの存在である。あの人がいなければキキがどうなっていたかを考えると結構ぞっとするものがある。

また、絶妙に重要なのがその前に出会っているいけ好かない先輩魔女である。この先輩魔女に関しては以下の記事である程度詳しく書いた。

「魔女の宅急便」でキキが出会った先輩魔女は、何故あんなに「嫌な奴」だったのか?「魔女の宅急便」について前回は「ジジがラストでも喋らない理由」について考えた。前回の記事ではキキが魔法のちからを失った理由についても考え...

早い話が、あの先輩魔女はーおそらくーおソノさんのような人に出会えなかった魔女であり、本当に苦労しながら自分の居場所を見つけた苦労人として登場しているのだろうということである。

それは「おソノさん」というある意味「ご都合主義」な存在に対するある種の言い訳であり、「キキのようにうまく行った魔女ばかりではない」ということの表現でもあったのだろう。

ただもう一つ重要なのは、「夢見心地で旅立ったキキに、現実の厳しさを絶妙な強度で教えてくれた。」ということでもある。あそこでキキがある程度現実に引き戻されたお陰で、その後に起こったことにも対応できたわけである。

もちろんすぐにおソノさんに出会ってしまい、あれよあれよと物語は進むのだが、先輩魔女のスパイスの「キキ方」は絶妙だっただろう。

また、「天気の子」との比較という観点で重要なのは、キキは「旅立った」という形で描かれては居るものの、彼女が持っていたのは僅かなお金と箒である。

我が国の言葉であれを本来どのように表現するか言うと・・・「家出」である。

家族や友人に見守られているので気づかないのだが、あれはキキの家出をみんなで見守っているのであって相当に歪んだシーンとなっている。とにかく、キキは身一つで故郷を振り切ったのである

「魔女の宅急便」の原作ではキチンとお金を渡しているそうなのだが、宮崎版ではそれがでかい箒に変わっている。この改変にも意味はあると思うが、それには深入りしない。

「天気の子」の基本構造

では「魔女の宅急便」との関連性を強調する形で「天気の子」という物語の流れを考えてみると、

  1. 家出少年の帆高はフェリーで東京を目指す。
  2. フェリーの中で怪しげな男須賀にたかられる
  3. 東京で仕事を探そうとするもうまくいかない。
  4. 須賀にもらった名刺を頼りに彼を尋ねると、なんともうまいこと仕事と食事と住処にありつけた
  5. 色んな人に出会いながら、帆高は自らの行き方を見つめていく。

ラストの流れは完全に省略したが、物語が進行できた理由を考えてみるとこの辺のところに落ち着くのではないだろうか。

こうしてみると分かるのは、「天気の子」に置いては「須賀」という存在が、「先輩魔女」と「おソノさん」の両方の役割を演じて居るということだろう。

右も左もわからない家出少年帆高にたかることによって最初のパンチを食らわし、その後に彼に居場所を与えたのである。

ここからが重要だが、この共通点から我々は何を見出すべきだろうか?

1つの考え方は「2作品とも結局ご都合主義で作られている」ということかもしれないが、いい年こいてそんな中学2年生みたいなことを言っても人生は豊かにならないので、もう少し違う観点でこの共通点に思いを馳せようと思う。

2作品の共通点に見る隠れたメッセージ

誰かのお陰で生きている

結局の所、おソノさんや須賀の存在が我々に伝えていることは「人は誰かのお陰で生きている」ということになると思う。

2作品においてはそれが露骨に描かれてしまうために「ご都合主義」に見えてしまうかもしれないが、それはキキやジジの周りにいた人の代表者として登場しているにすぎないという見方もできるだろう。

実際には多くの人が少しずつ彼らの支えになっていたのであろう。それは現実社会に言い切る我々も同じではないだろうか。

特定の誰かに著しく世話になることがなくても、気づかないくらい小さいことを多くに人にしてもらって、今の自分が形成されている。まあ、たまに「この人だけには頭が上がらない」という人に出会うこともあるかもしれないが、そういう人が思いつかなくても誰かの世話にはなって来たのだろう。

そしてそのように考えると、我々の生き方もー理想論としてー決まってくるように思われる。

それはいつか、誰かにとってのおソノさんや須賀になれるように生きようということになるのではないだろうか。

おソノさんになるキキ、須賀になる穂高

きっとおソノさんや須賀は、キキや帆高の未来の姿に違いない(仕事は違うだろうが)。

あれだけ人に世話になってしまったら、いつか苦境の中にある若者を見てしまったら助けずにはいられないだろう。

今思えば、穂高が黒猫を保護するという事実は「いつか穂高は自分より弱い状況にいる誰かを助けれる人になる」ということを示していたのかもしれない。須賀にとっては劇中の帆高はあの黒猫のように見えてもいたのだろう。

あるいは、わかりやすく「魔女の宅急便」を意識させることによって「魔女宅の構造的オマージュ」をわかりやすく伝えていたのかもしれない。

何れにせよ、一見「ご都合主義」に捉えられることも「メッセージ」と捉えれば、少しは世界が広がるのではないだろうか。


以上でこの記事は終了だが、すべての始まりが新海監督のインタビューだったことを考えるとそれを発見できなかったことが残念でならない。

あの記事はそもそも存在しないのだろうか。あるいは別の記事と勘違いしているのだろうか。別に新海監督の証言がなくてもここで書いたことは私が本当に思っていることだから問題ないのだが、新海監督が「天気の子」と「魔女宅」に関して話している記事をご存知の方がいましたら、コメント欄で教えていただけるとありがたいです。

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シフルはどうなんだい?
ひじょう~に難しいが、一番最初に見た「雲のむこう、約束の場所」かな。明日は違うことを言ってるかもしれないけど。

この記事で使用した画像は「スタジオジブリ作品静止画」の画像です。

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北国出身横浜在住の30代独り身。日頃は教育関連の仕事をしていますが、暇な時間を使って好きな映画やアニメーションについての記事を書いています。利用したサービスや家電についても少し書いていますが・・・もう崖っぷちです。孤独で死にそうです。でもまだ生きてます。だからもう少しだけ生きてみます。           
           
                   
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