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SFCの傑作RPG「ファイナルファンタジーVI」はなぜ面白いのか?

ファイナルファンタジーVI

「ファイナルファンタジーVI(FFIV)」は1994年にスクウェアから発売されたSFC用RPGである。ドット絵のグラフィックスが大変美しい作品であり、おそらくSFCで発売された最後のFFである。この次が、RPGの歴史的転換点となったFFVIIであるが、現在に至るまで私はFFVII以降をプレイしていない。VIIの発売当時、私は小学生6年生で、ギリギリ初代PSを持っていなかったのだが、ハードがなかっという以上に、FFVIの美しいドット絵に比べて、当時のFFVIIのポリゴンはあまり魅力的に見えなかったことが、FFVIIを親にねだらなかった理由であった。そして、VIIをプレイしなかったがゆえに、それ以降のシリーズも今なお手を出していない(個人的には今なお楽しみが残っているのだと思うことにしている)。

このように、私のFFはVIで終わっているので、私の感覚には大して意味がないのだが、FFVIは「私が一番好きなSFCのRPG」となっている。今回は私がなぜFFVIを一番おもしろいと思っているのかを語りたい。FFVIを好きな人はたくさんいると信じているし、私が気づいていないFFVIの面白さがまだたくさんあると覆うのだが、今回の話のキーワードは

この世界は美しい

である。FFVIの面白さはこの「この世界は美しい」の描き方にあると思っている。さて、FFVIはどのように「この世界は美しい」を描いたのだろうか?

全員主人公だが、全員ボロボロ

FFVIはティナの物語として始まるので、基本的に主人公はティナでよいのだが、FFVIの基本姿勢は「全員主人公」である(もちろん、こういった構造はドラクエ4の方が先である)。「全員主人公」の意味は「全員何かを抱えてる」である。FFVIに登場する人物、少なくとも我々が操ることのできる人々は、みんな何かを抱えている。例えば、

  • ティナは自らの出自の謎に悩み、
  • ロックは恋人を死なせてしまった自責の念に苦しんでおり、
  • エドガーは「本当は自由に生きたかった」という思いを隠し、
  • マッシュはエドガーに「国を押し付けた」ことを引きずっており、
  • セリスは自らの「空白」に苦しみ、
  • シャドウは友人を見捨てた過去を忘れることが出来ず、
  • カイエンは家族を救えなかった自分を責め、
  • ガウは親に捨てられた過去を持ち、
  • セッツァーは「友の喪失」を抱えており
  • ストラゴスは青春の夢に背を向け、
  • リルムは親のいない寂しさをひた隠しにしている。

まとめると「みんなボロボロ」である。しかしここで重要なのは「みんなボロボロなのに、何故平静を装うことが出来たのか」である。

混乱という「福音」

さて、出てくる連中みんなボロボロなのに、なぜFFVIの話は進んだのだろうか?答えはたったひとつ「帝国という敵がいたから」である。ティナやロックたちは、確かに何かを抱えているのだけれども、幸運にも(正確には不幸にも)ガストロフ皇帝率いる「帝国」が世界を手に入れようとする混乱の中にいることが出来た。彼らは「帝国との闘い」という大義名分を得ることによって「自らの苦しみ」から目をそむけることが出来たし、正確に言うと「自らの苦しみと対峙する暇がなかった」のである。つまり、「帝国の侵攻という混乱が、彼等が自らの苦しみから目をそむける猶予を与えた」のである。

そしてここでもう1つ重要なのは重要なのは、「帝国の侵攻という混乱によって猶予を与えられた世界」は「空は広く、海は青く、緑に包まれた大地である」ということである。彼等は「一見キレイな世界で、本当は苦しんでいた」のである。

濁った海、荒廃した大地。

FFVIというゲームは前半と後半とに別れている。前半は「キレイな世界での帝国との闘争」、後半は「荒廃した世界でのケフカとの闘争」である。

極めて皮肉な話だが、後半戦の「ケフカによる恐怖政治」は「恐怖による安定」を生み出すことによって、FFVIの登場人物たちに「自分の問題と対峙する時間」を与えたのである。そして、彼等は何かを手に入れる:

  • ティナは自らの未来への渇望を、
  • ロックは守るべき人を、
  • エドガーは王としての覚悟、
  • マッシュは自由に生きる覚悟を、
  • セリスは「愛する人」を、
  • シャドウは「醜い自分」を「友」と思ってくれる存在を、
  • カイエンは家族の死の受容を、
  • セッツァーは「友の思い」を
  • ストラゴスは青春との決別を、
  • ガウとリルムは「友」を得た。

つまり、「空と海がにごり、山が緑を失った世界」で未来への希望を得たのである。私が思うFFVIの面白さはまさにこのコントラストにある。

世界の美しさとは、すでに美しい世界から与えられるものではなく、「自らの手で掴み取るもの」であり、たとえ荒廃した世界であっても「人間にはそれができる!」という強いメッセージを感じ取ることができる。まさに「人間精神の栄光」を描いたような作品で、ジョジョの奇妙な冒険のような力強さがある。この辺が私がFFVIを好きな理由となっている。

さて、我々は「内面はボロボロだが、混乱故にその事実から目を背けていられた人々」をFFVI以外の作品で目にしている。そう、ネルフの職員である。

エヴァンゲリオンにおけるネルフの職員

さて、新世紀エヴァンゲリオンに登場した機関「ネルフ」の職員たちはどんな人達であっただろうか。シンジ、アスカ、ゲンドウ、冬月、葛城そして赤木等主要人物ついてはその内面描写がある程度なされていた。

  • シンジは自分が必要とされない存在だと考え、
  • アスカは母に愛されなかった過去を呪い、
  • ゲンドウは失ってしまったユイに囚われ、
  • 冬月はユイへの思いを隠しながら復讐のようにゲンドウに寄り添い
  • 葛城は父という存在を精算できず、
  • 赤木は母親への歪んだ思いに囚われている

つまりは「みんな内面ボロボロ」である(他の職員たちも概ね同じようなものであっただろう)。ところが、彼等は「使徒というなんかよくわからないけどとんでもなく強い相手と戦うという混乱」の中にいた。そのおかげで、FFVIの主人公たち同様に、自分が抱える内面の問題から目をそむけることが出来た。ところがどっこい、FFVIでは「それでもなおこの世界が美しいと思えるなにか」を主人公たちが見つけ出すことによって、前向きで美しいエンディングになっているのだが、エヴァンゲリオンの場合はそうはなってくれていない。TV版の終わりは—一応良いエンディングだったは個人的に思うけれど—シンジが何やら奇跡的な人間性を発揮して「ここにいてもいい」という結論にたどり着き我々を困惑させた。

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旧劇場版はTV版で描かれなかった「本当に起こったこと」が描かれているのだと思うけれど、「気持ち悪い」で終了である。

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少なくともあの終わり方で「いいもん見たな~」と思えるのは相当の「熟練者」であり、通常は未消化な思いに苦しむことになる。「人々が抱えた内面の苦しみと混乱という福音」という同じような構造で出来ている2作品だが、こうやって比較してみるとFFVIの終わり方が如何に爽快だったかが分かるし、FFVIは美しく終わったエヴァンゲリオンと言えるのではないだろうか(もちろんエヴァの方が後に公開されているけどね)。

まとめ

以上のことをまとめると

まとめ

FFVIの主人公たちは何かしら内面の苦しみを抱えてるが、帝国との闘いという混乱の中にあったために、その内面の問題から目をそむけることが出来ていた。ところが、ケフカの謀略によって崩壊した世界の中で、彼等は自分の内面の問題と向き合い「こんな荒廃していても、この世界は守る価値のある美しいものだ」ということに気づき、ケフカとの最終決戦を決める。

FFVIの面白さは「あえて荒廃した世界で世界の美しさを手に入れる」というコントラスと、それを実現するための「人間精神の栄光」の描写にある。

また、TVシリーズや旧劇場版の「新世紀エヴァンゲリオン」においても、使徒との闘いという混乱のおかげで自らの内面の問題から目をそむけることが出来た人々を描かれていたが、爽快なエンディングを迎えることは出来なかった。こういった視点に立ったとき「FFVIは美しいエンディングを迎えたエヴァンゲリオンだった」と言えるのではないか

ということになる

今回はFFVIとエヴァの類似について考えたが、映画「もののけ姫」も似たような趣のある作品と私は思っている。

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何れも90年代という「バブル以後」の世界で作られた作品である。当時私は小学生だったので、社会のありようやこの国の未来についてあまり考えていなかったが、「ものを作る側の大人達」があの時代をどう捉えていたのかが現れているのではないだろうか。FFVIはやはり子供がプレイすることを想定していただろうから「バブルが崩壊し、混迷を極める世界の中でも、我々は希望を掴むことができるんだ」という大人から子供へのメッセージだったのかもしれない。

いつもどおり小難しく書いているけど、FFVIといえばやっぱり「ファルコン号の復活」だよね。海から浮上していくファルコン号とともに「仲間を求めて」が流れたときはまさに鳥肌ものだった!

おまけ:ケフカとは何だったのか?

FFVIを語る上で避けて通れないのが「ケフカ」という存在である。作品中ずっと道化のような振る舞いをしていながら、見事に世界を崩壊させ、ラスボスとして君臨したのである。どうも意味ありげな存在なのだが、ケフカとは一体どういう存在だったのかというと「主人公たちの内面の苦しみや、世界を呪う気持ちの象徴」だったのだと思う。FFVIの主人公たちは基本的に世界を呪っているので、意識しているかどうかに関わらず「こんな世界なくなってしまえ!」と思っているのであるが、ケフカはそんな彼等の代わりに、本当に世界をぶっ壊してくれたのである。ケフカが起こした世界の崩壊を防げなかった理由もこの辺にある。ところが、主人公たちは「この世界も悪くない」と180度考えを変えてしまって「世界を呪っていた自分たちとの決別」をするためにその呪いの象徴であるケフカを打倒するのである。こう考えると、ケフカは「望むとそこに現れ、必要がなくなると消えてゆく」という、人間にとっての幽霊とか妖怪に近い存在になっている。ラスボスとしてのケフカが弱いのは、ケフカを必要とした主人公たちの中にあった破壊衝動がもうすでになくなっているからである。中々切ない話じゃないか。「俺を生み出したのは君たちじゃなかいか!」くらいのことは叫ぶべきだったのではないだろうか。

もう少しだけケフカを思いやってあげても、バチは当たらないと思う。

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