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【FF3】「暗闇の雲」は最も「正しい」ラスボスだったーピクセルリマスター編ー

ファイナルファンタジー3(FF3)は、1990年にスクウェアから発売されたファミコン用RPGゲームである。私がプレイしたFFはFF6までなのだが、その中でも最後にプレイしたのがFF3だった。

なかなかしんどい思い出のある作品だったが、FF6までの「ピクセルリマスター」なるリメイク版は発売され、FF1だけをプレイするつもりが結局FF3までプレイしてしまった。色々な思い出が蘇ってきたが、やはり強烈に思うことはラスボス「暗闇の雲(くらやみのくも)」の「正しさ」だった。

「暗闇の雲」の「正しさ」

ここから話す「正しさ」とは「正義と悪」といったような善悪における「正しさ」ではなく、最も正しく君臨したラスボスという意味における「正しさ」である。まずはその「正しさ」を初めて食らった思い出話しから始めよう。

最初のプレイの思い出-クリスタルタワーの苦難-

FF3といえば、シリーズで初めて「ジョブシステム」が取り入れられた作品であり、少なくともFF5まではその影響下にあった(FF7以降はどうだったのだろうか?)。そのシステムを無理やり使わせるシナリオになっており、少なくとも「竜騎士」と「ダークナイト」は物語上の必然としてジョブチェンジすることになったと思う。

基本的には自分の好きなジョブを選択すればよいのだが、ラストダンジョン、あるいはラストダンジョン内から侵入する「禁断の地エウレカ」で「忍者」と「賢者」というジョブを入手することになるので、多くの場合、ラストバトルはこの「忍者」と「賢者」で構成されることになるだろう。

私もこの例にもれず、エウレカ攻略後は忍者2人と賢者2人のパーティーでクリスタルタワー攻略に向かった。

苦労はしたものの、なんとかラスボス「暗闇の雲」に到達したのだが、ここで私は絶望を味わう。

何度やっても「暗闇の雲」を倒せなかったのだ。

しかもファミコン版の場合、セーブが出来たのはクリスタルタワーの外なので、一度やられるたびにクリスタルタワー攻略を繰り返す羽目になる。これはもう地獄だった。下の画像を無限回見たのは私だけでは無いだろう。

最終的な編成は忍者2人、賢者2人だったのだが、何度やっても賢者の回復が追いつかない。更にたちが悪かったのは、ある程度戦闘が続くので「後少しなんじゃないか?」という幻想から逃れることが出来なかったことである。

最終的には諦めて「レベルと熟練度を上げる」という最終手段に打って出て、なんとか「暗闇の雲」を駆逐することができた。つまりはゴリ押しだったわけだが、何故に私はラスボス戦に苦労したのだろうか?

波動砲の驚異

私が「暗闇の雲」を駆逐できなかった最大の理由は「波動砲」である

ピクセルリマスター版ではなんとも迫力なるアニメーションに進化しているが、この波動砲は全体攻撃であり、ダメージは1000前後出る。

これだけなら大した問題でも無いのだが、やつは原則としてこの攻撃しかしてこない。つまり、「暗闇の雲」は延々と強力な全体攻撃を繰り返してくるわけである

したがって、1ターンの回復が「波動砲」のダメージを超えなければ、どんどん消耗戦を強いられることになる。特段苦労することなくピクセルリマスター版では倒すことが出来たが、最終的にレベルは50前後、ジョブの熟練度は「忍者」が50程度、「賢者」は40程度だった。ここまで成長していれば問題ないのだろうが、かつてプレイしたときにはおそらくレベルは40台で、熟練度は壊滅的に低かったのだろう。

まあ、「回復が追いつかない」という状況があるのだから、何かに気づいてレベル上げや熟練度上げをすれば良いようなものだが、「ラスボスまでは行ける」という事実が、私から「レベル(熟練度)上げ」という発想を奪っていた。

少々自分が間抜けであったということもあるのだが、この延々と続く全体攻撃は私に深い印象を与えるものだった

「暗闇の雲」は「正しい」ラスボス

FFに限らず–少なくとも古い–RPGのラスボスといえば、強力な全体攻撃を持ちつつも、何故かどうでもいいような攻撃を合間に入れて、我々に「回復」や「状態異常」を改善する合間を与えてくれる。

それはそれでありがたいのだが、なぜ最後の最後に君臨する強力なラスボスそんなぬるいことをするのだろう。最大戦力で我々を倒しに来ているようには到底思えない。

逆に「暗闇の雲」は最も正しい攻撃を我々に食らわせてくる。

みんなあいつみたいに良いのにと、様々な攻撃を仕掛けてくるラスボスを見るたびに私は「暗闇の雲」を思い出すのです

おまけ:FF1、FF2、FF3をプレイして思ったこと

今回ピクセルリマスター版の旧作FFが出たということで、勢い余ってファミコン三部作を全てプレイしてしまった。

そこで感じたことは、「ゲームとしてはいまいち面白くないかもしれないが、バックグラウンドにある物語は結構魅力的」ということだった。

FF1は永劫回帰する悲劇の繰り返しを見事に打ち破る物語であった。FF最初の物語にして中々強烈な物語を打ち込んでいる。本来は永遠に続くはずだった悲劇の繰返しが終わった唯一の理由は「我々プレイヤーの存在」ということだったのだろう。なんともメタ的ではあるが、作り手の本気と心意気が感じられるものだった。

FF2は熟練度システムという中々に尖ったシステムを導入したが、壊滅的に魔法が無意味というなんとも残念な出来でもあった。究極魔法「アルテマ」を手に入れるために命を落としたミンウに思いを馳せたプレイヤーも多かっただろう。それでもなおFF2で描かれたのは、状況に殉じる人々の高潔な精神だろう。現代的には「特攻精神の賛美」として批判されてしまうかもしれないし、現実世界では「命をかけないで済む工夫」の方が大切だとは思うが、彼らの精神には胸を打たれるという事実をかえることは出来ない。

そしてFF3では「光の戦士」がいるのなら「闇の戦士」が存在するはずで、この世の悲劇は「光と闇」のアンバランスの間に生じるという物語であった。そしてそれは我々一人一人の中にある心の葛藤そのものであり、そこにアンバランスが生まれたときに「暗闇の雲」やその対となる存在が生じて誰かを傷つけてしまう。ポイントは「光」も強くなりすぎれば問題を起こすというメッセージである。我々は自分の中にある「光」にもバランスを与えなくてはならないのだ。

このように物語性は結構いいのだが、ゲームとしてやはりいまいちだろう。FF6までを考えると、ゲームとして一番おもしろかったのはFF5かもしれない。今なお大人気のFFである。

私が一番好きなFFはFF6であるが、あれもやはりゲームとして面白いかどうかというのは微妙な点である。しかしその物語性は秀逸であった。

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この辺のバランスはFFの基本構造なのかもしれない。俺はFF6までしか知らないけど。