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新世紀エヴァンゲリオンと機動戦士ガンダムの共通点にみる、我々がTV版エヴァンゲリオンのラストに納得できなかった理由。

新世紀エヴァンゲリオンと機動戦士ガンダム

「新世紀エヴァンゲリオン」は1995年から96年にかけて放送された庵野秀樹監督のTVアニメ作品である。舞台は日本。主人公碇シンジ、そしてシンジが所属する機関「ネルフ」と「使徒」とよばれる謎の存在との戦いを描いた作品であり、今なお人気が衰えない日本アニメ史上の傑作である。人気の一因と思われるのが作品中に散りばめられた「謎」「コード」である。一度見ただけではいまいちわからない部分が多く、消化不良になってしまいがちだが、現在では多くの有志によって考察が行われ、概ねエヴァンゲリオンの世界を概観することができるようになっている。

一方「機動戦士ガンダム」は1979年から80年にかけて放送された富野由悠季監督のTVアニメ作品である。地球はずでに地球連邦政府によって統一がなされ、人類は宇宙に進出し、月やスペースコロニーでの居住を実現していた。そんな中、サイド3と呼ばれるコロニーが地球連邦に宣戦布告し、独立戦争を仕掛ける。主人公アムロは戦争に巻き込まれ、モビルスーツ「ガンダム」を操縦し、彼の母艦「ホワイトベース」のクルーと共に1年戦争を生き抜く。

今回はこの2作品の類似をたどることによって、TV版エヴァンゲリオンの有名な最終話について考えていこうと思う。

2作品の共通点

2つの作品を見たことのある人なら、物語上の共通点を幾つか見出すことができるものと思う。例えば、

  • 主人公は父親が関わったプロジェクトの中で生み出された“ロボット”に乗っており、
  • なんやかんや活躍するが、
  • その中で我を忘れそうになったり、苦しい思いをし、
  • 現状からの逃走を図るが、
  • 結局はみんなを守るために戻ってくる。
  • その後、闘いの中で心を通わす相手にで会うが、
  • 結局その相手を殺してしまう。

もっと色々あると思うが、概ね上記のような類似性がある(TV版に限定すると、両親との関係はあまり類似がないように個人的には思う)。ただ、これは表面上の類似性であって、それぞれのエピソードの意味、特に主人公であるシンジやアムロの内面の真実には大きなさがあると思われる。その差についてもまとめようと思うが、より重要な類似について話そうと思う。

「ガンダム世界」におけるアムロの立ち位置

「機動戦士ガンダムの何が面白いのか?」という問いに対する答えの1つは「世界観」であろう。より具体的には「機動戦士ガンダムという物語の主人公アムロの行動、活躍は、1年戦争終結のためにものすごく役にはたったが、決定的には連邦が物量戦で勝利した」ということだと思う。言い換えると、アムロは間違いなく物語の主人公ではあったが、世界の主人公ではなかった。アムロ以外の全ての登場人物についても同様である。彼らは世界の主人公ではないので、ただ「懸命に生きる」ことしかできなかったのである。それでも、デギン・ザビは主人公になりかけたし、ギレン・ザビは主人公になろうとはした。しかし2人の末路は悲惨なものであった。

エヴァンゲリオンにおけるシンジ

ガンダムにおけるアムロと同様に、エヴァンゲリオンにおけるシンジも、間違いなく物語の主人公ではあったがあの世界の主人公ではなかった。機動戦士ガンダムでもそうだったのだが、世界と主人公との間にこういう関係があるがゆえに、世界に広がりと深みができるので作品は面白くなる。特にエヴァンゲリオンの場合、ある種の「謎」が提示されるため、その爆発力は大きい(「人類補完計画」ってなんやねん!)。しかも、というか、それ故に、物語が進むにつれて我々の興味が「シンジの苦悩や成長」ではなく「世界の秘密」の方に向いてゆく。結果的に、我々がエヴァンゲリオンの最終話に求めるものは「人類補完計画の全容」と「碇ゲンドウの目的の解明」となってしまう。このように、世界の主人公と物語の主人公の差によって、我々の不満は発生したのではないかと思われる。

色々と最終話に対する不満について考えてきたが、その上でもう一度、最終話について考えたい。つまり、あの最終話は「シンジの物語の結実」であったはずで、そもそも世界の秘密とは関係がない。では「シンジの物語」とはなんであったか?

エヴァンゲリオン最終話の再考

エヴァンゲリオンの最終話を考える上でやはり見過ごせないのはシンジくんの言葉「僕はここにいても良いんだ」であると思う。ガンダムにおいても似たようで全然違うセリフを最終話でアムロが口にする。つまり「まだ僕には帰れる所があるんだ。こんなにうれしい事はない。」である。これらのセリフの持っている意味合いの差の中には、シンジの抱えている本質的な苦しみが現れており、一番最初に述べた2作品の類似の根本的な意味の違いにもつながる。例えば、シンジはネルフから逃げるし、アムロはホワイトベースから家出するのだが、アムロが考えているのは「こんなところにいられるか!」ということであり、自分の存在が必要であることを強く認識している(周りはそれを一生懸命否定してみせるけれども)。一方シンジが感じていることは「こんなところにいてられるか!」ではなく「やっぱり自分はいらない人間なんだ」である。また、心を通わせた相手を殺してしまうことについても、アムロの最後のセリフは「ララアならわかってくれるよね。」であるので、実はアムロの中でララアの死は何かしらの合理化を迎えている。ところが、シンジくんにはカヲルの死を合理化する暇がない直後が第25話「終わる世界」、次が「世界の中心でアイを叫んだけもの」である)。また、両親との関係についても、アムロは自ら母や父を乗り越えるチャンスを与えられるが、シンジにはその機会が与えられない。というよりも、シンジはまだ乗り越える段階にすら達することが許されない(シンジはゲンドウにちょっと褒められただけで充足してしまう)。

以上のように、2作品には表面上は似ているけれど登場人物の内面において全く異なるシーンが登場する。これが意味するところはなにか?

おそらく、機動戦士ガンダムに対するある種のアンサーだったのではないかと思う。エヴァンゲリオンもガンダムも所謂「戦乱(混乱)の中で少年は・・・!」という話なのだが、ガンダムでアムロはその中で成長し、新しい何かを発見する。しかし、TV版エヴァンゲリオンで描かれているのは「今という時代を生きる若者は、使徒が攻めてくるという大混乱の中でさえ、新しい何かを発見できない深刻な状況に立たされている」ということである。したがって、シンジの物語を終わらせる方法はあれしかなかった(「機動戦士ガンダムを現代で実現しようとすると終わらせることができないのだ」というアンサー)。それでもなお「父よありがとう、母よさようなら、全てのチルドレンおめでとう!」で終わらせたのは、作り手のせめてもの心意気だったと今になると思う

以上全てのことをまとめると、

まとめ

物語の主人公と世界の主人公が異なるという現象によって作品に奥行きが生まれ、エヴァンゲリオンという作品は非常に面白くなったが、我々の興味が奥行きのほうに向いてしまったがゆえに、謎解きが行われない最終話に不満をもってしまった。一方で、息もできないような苦しい状況に置かれているシンジの物語を終わらせることのできる現代的なリアリティーが存在していないため、せめて「おめでとう!」という祝福の言葉で作品を締め括るしかなかった。

ということではないかと私は思う。今を生きる人々のほうが、シンジくんに自分を重ねやすいかもしれない。

最後に

今回はエヴァンゲリオンについて「物語の主人公と世界の主人公が違う」ということを散々語ってきた。物語の主人公はもちろんシンジくんだが、世界の主人公は誰か?もちろん碇ゲンドウである。物語の主人公碇シンジと世界の主人公碇ゲンドウの全面戦争を描いたのが「旧劇場版」であったと思う。このことについても今度考えてみよう。

まあ、とにかく、どっちの作品も面白い!ということで良いんじゃねえかな~。
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おまけ:ちょっと「うがった」見方

今回はTV版エヴァンゲリオンのラストをできる限り肯定的に捉えようという趣旨で文章を書いてきたのだが、やはり少々うがった見方もしたくなる。というのも、TV版の最終話でシンジくんは「僕はここにいても良いんだ」という自己肯定を「奇跡的に」手に入れるのだが、そのプロセスがまあむごい。

最終話でシンジくんは

「逃げちゃいけないのは逃げたら見捨てられるからなんだ!僕は見捨てられるのが怖いんだ!僕を捨てないで!頼むから捨てないでくれ!でもどうせこんな僕を誰も受け入れてくれないんだ!そして僕はこんな自分自身のことが嫌いなんだ!」

と本音を吐き出すのだが、そんなシンジに他の登場人物は

「辛いのは君だけじゃない!何もしないのは傷つくのがこわいからだろ?誰にも受け入れてもらえないなんて言ってるけどそう思い込んでるだけだろ?みんな自分のことを嫌っていると考えてるけど、結局それもお前が思い込んでるだけだろ?」

と言われてしまう。彼の苦しみの全否定である。要するに「お前が苦しいのはお前のせいだ」と言われている。そしてさらに「僕はここにいても良いんだ!」の直前では

「現実を悪く嫌だと捉えてるのは君自身だ、君の心だ。現実を真実に置き換えてる君の心さ。現実を見る角度、置き換える場所、これらが少し違うだけで、心のかたちは大きく変わるわ。お前は人に好かれるのになれていないだけだ。」

ほんの少し優しくなったように見えなくもないのだが、表現が僅かに変わっただけで、結局は「お前が悪い」である。そしてこの後「僕はここにいても良いんだ」とフルスロットルで考えを変えて、皆から「おめでとう」と言われるのである。徹底的にその人を否定しきって、僅かに考えを変えた瞬間に「おめでとう」なんて、人間漂白そのものじゃないか。「シンジを救うには漂白しかねえじゃねえか!」とさじを投げられたような気分にもなるし、この時期だとオウム事件も想起される。いずれにせよ、この方向でものを考えるのはあまり気分の良いものではないので、私は基本的に「作りての心意気」という立場を取ることにしている。こう書くと皮肉っぽく見えるけど、私は本音で、本気で「心意気」だと思っているし、TV版のラストは素晴らしいと思っている。だから「うがった」見方は「おまけ」だし、あまり気分が良くないのである。